2021年7月(1)

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 7月29日〔木〕
 たみとやジャーナル142号発行 5時たみ(ゴジラ)始めました♪
7月の5時たみゴジラ
 


7月8日
5時たみゴジラ 3
最後に恒例?ケンちゃんゲーム「ウソを見抜くゴキブリポーカー」
食事メニューは、シンガポールチキンとサユリマ(シンガポール風野菜カリー)ライス
おやつは三里塚とうもろこし
終了後、次回に備えてスタッフ同士「大人?シリトリ」練習^_^_^
   
   

7月15日
5時たみゴジラ4
自主自律自発勉強^_^
今日のケンちゃんゲームは、語彙力増強シリトリ「ワードバスケット」
メニューはりんたろう亭特製ハンバーグとたみとや店長特製ポテトサラダ完食^_^
   
   

7月29日
5時たみゴジラ5
今日も自主自律自発勉強^_^
ケンちゃんゲームは、語彙力増強シリトリ「ワードバスケット」つづき
メニューは暑いので
インドネシア風(鷄ひき)肉味噌(ピーナッツバター入り)丼とタフゴレンサンバル(厚揚げとトマトの甘辛煮)
   
   

7月28日〔水〕 
 7月のこども塾229回~232回
 
   
   
   
   
 7月25日〔日〕
 反原発プチしゃべり場第30回
プチ労124回


2021-7-25プチ労124まとめ>

参加者:8人 中高年:青年=35 地域:それ以外=44

メニュー:新作!岸田さん差入れカジキマグロ・鰆の南蛮漬け

                   &三里塚なすとピーマンの甘辛味噌煮

 

「近現代日本150年の労働者・民衆の闘いの歴史」第33

新章:第四章 日中戦争から敗戦(1937年~1945)~昭和天皇の戦争

()1937年 日中戦争~昭和天皇の「勇気」  

第二節 日中戦争-アジア太平洋戦争の原因

a.  天皇制というシステムの戦争と抵抗 ④

レポーターしょうごさん

「草稿」39頁~59

petitrou124matome.pdf へのリンク

 

 193777日、中国北京郊外の盧溝橋での「つまらぬ衝突」から拡大し泥沼化した日中戦争。

 どうして本格的戦争になったのか。

「草稿」では「軍部の先手を打つ」と拡大させた近衛とそれを後押しした天皇裕仁の言動を中心に記述した。

 それに対して、レポートは題して「止められない戦争。止まらない五輪」

「戦争は数字のとれるコンテンツ」として煽った当時のメディアの姿を臨場感豊かにレポート。

 そして、メディアに煽られた「民衆のメンタリティって今とちがうのだろうか? 反戦の声はどうだったんだろうか?」とGood Question

まさに、五輪強行の最中で、今と違うこと・今と同じこと、という良い議論になった。

同時に、「それでも、権力の意志は「人民戦線事件」にも見られるように、反戦の声をどこまでもつぶしたことが印象的。小さな声をどこまでも「圧殺」しないと戦争を続けられなかった。」という感想が出た。

 

 

Report & Talk

 

Reporter YS:盧溝橋事件を契機に戦争報道は過熱した。

まずラジオ。300万台を突破して普及が進められたNHK一局だけ。農漁村で昼間送電線電気契約をするようになり、普及率が都市を上回った。NHK(近衛が総裁)は、その工事費や受信機への奨励金を出し、戦争報道の特別放送に加え、定時ニュースを延長。

新聞は、広告料減少や紙の配給制限で頁数の減少から、戦争報道で経営を維持せざるを得ない状況。多数の特派員を派遣し、戦争捕獲品の展覧会や軍への飛行機献納等の献金運動も盛んに行った。

雑誌は、講談社「キング」(天皇裕仁即位のころに日本で初100万部を達成した大衆雑誌)などが特集号、増刊号と好戦的な紙面を続けた。

戦争ニュース映画も盛んに作られ、一館平均4千人、40館で116万人が見に来る規模になった。

戦争が数字のとれるコンテンツと化してしまったために、メディアも戦時協力体制に自ら積極的に加わっていった。

まるで、今の五輪報道に似ている。

 

GO:ただ、「草稿」に書いたが、民衆はなかなかついてこなかった。作家の武田麟太郎も「中央公論」に「中国人とは国籍など関係なくつきあっている」(「草稿」45)とまだ開戦2か月のころに書いている。だから、近衛は「国民総動員精神運動」を始めた。

MK:民衆が巻き込まれていくのに2段階あると思う。最初一人だとなかなかだけど「赤信号二人で渡れば怖くない」というように。

N:でも、今は「五輪反対」が根強く頑張っている。

MK:「反対」の人は、テレビを見てないあるいは見ない層が多い。SNSも発信が「一方的」にならざるを得ないが。

YS:当時は、SNSはもちろんテレビもなくラジオだけで、それもNHK1局だけだった。おまけに、NHKはラジオ普及のために受信料免除の策もとった。新聞は朝日が240万部、毎日が340万部で、読売は1937年には80万部だったが翌年には121万部になった。

UY:読売はまだ大阪の地方紙だった。今は読売800万部?

YS:とにかく「中国悪い」の報道が段々浸透していった。今の五輪でいえば「東スポ」がいかにもあからさまに売れればいいというスタンスで似ている。

N:今は海外の報道があるね。

YS:それも、国内のマスメディアはあまり報道しない。

MK:やはり、今もみんなが現場に行かなければ、政府などはコントロールできる。

YY:職場のこどもたちのなかで、ちょっとだけやったデモのニュースをたまたま見て「反対の人がいるんだね」と言っていた。

 

YS:当時の過熱した報道は「100人切りの勇士」などと、冷静に考えればありえない報道を繰り返した。

 日清戦争、日露戦争、第一次大戦と、当時、それまで戦争で負けたことのない日本の民衆のメンタリティは今と違うのか?

 反戦の声はどうだったのか?

 みなさんどう思いますか?

 

MK:「非国民」という言葉があったんだから反戦の人たちはいたと思う。

GO:共産党は日中戦争開始の2年前には組織的に壊滅させられていたが、いわゆる合法左派といわれる勢力や在日朝鮮人たちが反戦行動を続けていた。

MG:それでも、一般に伝える「発信の文化」がなかった?

GO:いや、まだ、この時期には、今の「週刊金曜日」にあたる京都人民戦線の雑誌「週刊土曜日」が発行され近衛を批判したり(「草稿」35)、雑誌「改造」で社会主義者の山川菊枝が生活への影響を批判したり、マルクス主義の哲学者戸坂潤が「ファシズム批判」を発表したりしていた(「草稿」48)

YS:ただ、「週刊土曜日」で言えば発行部数は6千部で、主に読んでいたのは学生、知識人だった。

N:誰かが声をあげていけば学生・知識人以外にも反戦のひとたちはいただろう。

GO:宗教者や教師たちもそうだった。

YS:しかし、アジア太平洋戦争になってからと違って、まだ徴兵検査で一番上の甲種合格しか徴兵せずに、兵隊に行きたい人も滅多にいけない状況だった。

GO:たしかに、国内で1937年は、都市中心に「高度成長中」でもあり、戦争が遠かった。

 それでも、支配層は、南京陥落でも戦争を終わりに出来ないので「反戦の人たち」を恐れて、日本中が「南京陥落勝利!」の提灯行列で沸き返っているのと同時に、「人民戦線事件」と称して、反戦のおそれのある人たちをゴッソリ一網打尽に検挙した。

 「草稿」表紙の写真(新聞号外記事)のように「新装共産党検挙」としたが、実際には共産党再建に関係ある人はほとんどいなかった。

 

GO:あと、「草稿」から補足すると、日中戦争の拡大と泥沼化はけっして「軍部の独走」ではなかった。

 「軍部に先手を打つ」として戦争を拡大し収拾できなくなった近衛、2.26事件で見たように「勇気」を持ってしまって、近衛を後押しした天皇裕仁がいた。

 裕仁は、敗戦後、戦争責任はないことを言うために「軍部の責任」を持ち出したが、南京陥落直後、「この戦争は無用の戦争」と参謀本部が涙ながらに和平を主張したことを黙殺した。

 

After Comment

 

AS:日中戦争の「ニ」の字も知らなかった。戦争と言えば「太平洋戦争」。

 (*それは「草稿」筆者も「草稿」書くまで同じだった。)

 レポートは具体的で臨場感があった。衝撃的だったのは、すでに1万人は戦死者が出ているのに、みんなノンビリしている感じなこと。緊張感がなく「戦争感」がない。今もし戦争が始まってもそんな感じなんだろうか。コロナの受け止めとも似ている。

 レポートされたように、当時、徴兵が甲種合格までで、「限られた優秀な人が立派に頑張っている」感じ? やっとラジオが昼間聞けるようになった農村では、彼らの「武勇伝」を集まって聞くのが「娯楽」でもあったんだろうか。

N:今との違いと今と同じところ、それが考えられていい議論だったし面白かった。

 当時はメディアも限られるなかで一方的な情報が流されたが、今はSNSで自分なりに採ろうと思えば情報が採れる。しかし、マスコミの在り方は同じ、当時よりひどいかも。

 そのなかで、MKさんの言ったように、政府にコントロールされないためにも、実際、現場に行ってみないとわからない。

 また、ASさん言うように、当時は、情報に飢えていたのかも。でも情報が氾濫する今も同じで、SNSなどの武器を我々のものとしてもっとちゃんと使わなきゃ。実際、この間、そうした武器の使いようでいくつも五輪の闇を明らかにしてつぶしてきた。

 もうひとつは、「反対の人」はどうだったのかの議論。

 たしかにインテリ中心で、その声は小さく、みんなへの伸ばし方が難しかった。そして、世の中は「戦争に遠かった」

 それでも、権力の意志は「人民戦線事件」にも見られるように、その声をどこまでもつぶしたことが印象的。

 小さな声をどこまでも「圧殺」しないと戦争を続けられなかった。

 

 

 次回829日プチ労125回は、そうした日中戦争下でも見ておくべき民衆の抵抗。

 「人民戦線事件」で一網打尽にされたが、そのなかでも人民戦線の実践を続け、敗戦後の「民主主義」の実質をつかみ取ることにもつながった「名もなき青年たち」の青春群像の前半。

 

以上

 

   
   
   
   
 
7月23日〔金〕 
 東京五輪開会式粉砕デモ・下見・グッズづくり
 
7月19日下見

本日の国立競技場
封鎖、封鎖づくしの「檻ンピック」、「工事中」の檻付き動物園
#東京五輪にレッドカード
   
   
グッズづくり
   
   
   

当日@原宿駅~千駄ヶ谷
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 
 7月13日〔火〕
 たみとや火曜日も担当Asamiさん&プチ労レポーター打ちあわせ
 
   
7月4日〔日〕 
7.4国鉄闘争全国集会@千葉市  
7.4国鉄闘争全国集会@千葉市 
動労千葉がCTSの現場で一人、一票を勝ち取り、
関西生コンが労組弾圧を跳ね返し続け、
解雇撤回闘争のみなさんの声がものすごく力強く響き渡り、
オリンピック中止へのみんなの意志とともに、
元気の出る集会でした
#東京五輪にレッドカード
   
   
 



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