プチ労122回
<2021-5-30プチ労122まとめ>
参加者:9人(久しぶりのMHさんとICさん初参加) 中高年:青年=4:5 地域:それ以外=5:4(今回からMGさん地域以外)
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シンガポールチキン&サユリマ(野菜カリー)&バスマティライス
「近現代日本150年の労働者・民衆の闘いの歴史」第32回
新章:第四章 日中戦争から敗戦(1937年~1945年)~昭和天皇の戦争
(1)1937年 日中戦争~昭和天皇の「勇気」
第一節 戦争への「Point of No Return」 b.2.26事件
レポーターあさみさん
日中戦争の前年1936年2月、陸軍青年将校が率いる1500人の歩兵部隊が首都東京の中枢機能を占拠し、「近代史上、最も実現可能性が高かったクーデター」といわれる2.26事件。(青年将校の写真など、後添レポーター作成資料参照)
「青年将校を演じる高倉健主演の映画などを見て『忠臣蔵』のようなロマンを感じてあこがれていた」というレポーターが、あらためて懸命に取り組んだレポートで、ズバットまとめてくれた。
「窮乏に苦しむ農村と農民を救うために、恋焦がれる天皇を中心に世の中を変えようと立ち上がった青年将校たちだったが、『ゲキオコ(激怒)』した天皇に裏切られて処刑されようとした時に、ようやく、本当に依拠すべきだった民衆を見ることができた。」
いいかえれば、天皇制の「幻想」を食い破った瞬間でもあった。
Reporter AS:娘婿も2.26事件の一員だった天皇側近の侍従武官本庄大将は「国を想う彼らの気持ちも汲むべきでは?」と天皇裕仁に進言したが、『ゲキオコ』した裕仁は「叛乱・逆賊」という見方を変えず、最後に将校たちが「自決するので、それを検死する勅使の派遣」を求めても「勝手に自殺しろ!」と言い放った。
そして、その前の海軍将校による5.15事件では、裁判が報道され、助命嘆願運動が起り、禁固15年の判決になったが、今回は、非公開短期間の軍事裁判で処刑された。
首謀者の一人磯部浅一(当時31歳)の「獄中日記」には、「・・看守たちがしきりにやってきて声をたてて泣いた、皆さんはえらい、必ず世の中は変わります・・全日本人の“被圧迫階級”はコトゴトク我々の味方だ・・」(「草稿」18p)とあるが、ここで、ようやく、彼等にも一緒に闘うはずだった人々を見た。見ることができたのではないか。
彼らの大きな矛盾は、誰に依拠するか。天皇なのか、民衆なのかだった。
本来、天皇が「神」ならば、信仰であるように「神は沈黙」しているはずだった。しかし、「天皇制の限界」ともいえるが、裕仁が「ゲキオコ」して、「矛盾」が彼等にも見えてきた。
「獄中日記」の別の日の磯部の「天皇への呪詛のような怒り狂った叫び」は、まさに、“好きで好きでたまらなかった女にフラレタ男のウラミ節”であり(「草稿」20p)、処刑の際も「天皇陛下万歳」は言わなかった。
一方、「裕仁が、その長い生涯において、この時ほど強く怒りを面にだしたことはない」といわれるほど『ゲキオコ』した裕仁は、その後、『目覚めて』、戦争の『大元帥』になっていく。
GO:1970年に陸上自衛隊市谷駐屯地で、「自衛隊立ち上がれ」と『激』を飛ばした後、割腹自殺した小説家三島由紀夫も、「英霊の声」など盛んに2.26事件について書いているが、そのなかで、「天皇は、なってはならない『人間』に二度なった。二度目は敗戦で、一度目は2.26事件」と書いている。
N:レポーターは、2.26事件を「かっこいい」ってあこがれてたんだね?
R AS:そう。左翼で言えば、革命歌「インターナショナル」のような、5.15事件の海軍将校三上拓が作って2.26事件でも歌われた「青年日本の歌」も好きだった。
でも、調べてみると、青年将校以外の下士官や兵士の多くは「軍の命令」だから出動していて、青年将校の想いとあまり結びついていない。逆に、青年将校たちはエリートだった。
N:軍ってそういうところなんだね。今のミャンマー見ていても、兵士たちが民衆を撃つのも命令に逆らえないからだと思う。
R AS:兵士や民衆と結びついてないという意味では、青年将校の『教科書』を書いた北一輝の「矛盾」を青年将校たちも吸収していた。
N:北一輝の矛盾?
GO:「国民の天皇」を初めて言い出した北一輝の「国民」の内容は、「常に曖昧だった」と北一輝を詳細に研究した松本清張も言っている。民衆を見据えたものではなかった。北一輝には、青年将校だけでなく、安田財閥総裁を刺殺した朝日平吾(31歳)や浜口首相を狙撃した佐渡屋留雄(21歳)も期待した。
朝日も佐渡屋も非正規労働者だった。しかし、搾取のない世の中に変えようとしながら彼等にはなかなか仲間がつくれず、天皇に期待した。(「草稿」24p)
N:「楯の会」とかあるが、三島由紀夫も結局仲間をつくれなかったんじゃないか。
MG:彼にも「居場所」がなくて、天皇にすがった。
N:「天皇はわかってくれるはず・・・」
MG:石原慎太郎によれば、三島は極端に運動神経が鈍くてコンプレックスがあったらしい。それで「自信をもとう」とした。
UY:昨年は、三島の割腹自殺から50年で、かなり宣伝されている。
MK:しかし、裕仁はかなり「バカ」だったらしい。
一同:おー!
MK:2.26事件の時も、何が起こったか聞きまくったが、側近はかなり正しい情報を入れているのに、理解しなかったらしい。だから、敗戦後、マッカーサーは裕仁と面接して「これは使える」と裕仁の戦争責任を免責して、いいように使うことにした。それを見て育った明仁は、かなり優秀で、天皇家を維持するためだけだが、野心的に「平和の天皇」を演じきった。
GO:この後、「バカ」だから利用されたというより、「バカ」なりに戦争の司令官として主体的になっていくということか。
MH:三島も割腹自殺も知らない。2.26事件は知っているが、受験の際の一種の記号。天皇になると、日常にまったく関係がない。
YS:天皇制を否定する立場から、最近の小室くんにはすごく応援している。
GO:磯部が「恋焦がれ」、朝日や佐渡屋が「すがった」天皇は、三島も「英霊の声」で書いているが、「厳父であり慈母」であるらしい。
N:両性か?
GO:女性史研究者加納美紀代によれば、明治維新で「父なる天皇制」としてたちあげられたものが、アジア太平洋戦争が激しくなるにつれ「母なる天皇制」が強調され、女性解放運動の側からも主張された「母性」と相まって、「総力戦」遂行に必須の女性たちを戦争に動員するテコになったらしい(「天皇制とジェンダー」)。
そして、敗戦後は、日本国憲法第一条「象徴」として、「母なる天皇制」は引き継がれ、「厳父」が隠され、「平和な慈母」が一層強調されている。
次回6月27日プチ労123回は、第二節、日中戦争が開始され、どう展開したかの前半として、特に、開始時点の「立役者」である「国民に大人気」の首相近衛文麿はどういうものだったのかにも焦点をあてて見たい。
<レポータ―資料>
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