<2024-3-31プチ労150回まとめ>
参加者:9人(久しぶりSEさん参加♪)
中高年:青年=6:3 地域:それ以外=7:2
メニュー:3月恒例キーマカリー&三里塚里芋ザブジ
「近現代日本150年の労働者・民衆の闘いの歴史」第60回
第四章 日中戦争から敗戦(1937年~1945年)~昭和天皇の戦争
新「草稿」(3) アジア太平洋戦争(前半) 第七回
第三節 戦局転換‐「大東亜共栄圏」思想と朝鮮独立闘争
①
「大東亜共栄圏」思想とアジア主義(第二回) レポーターゆいちゃん
(「草稿」108-132頁)
今回は、『大東亜共栄圏』思想、すなわち日本の侵略思想、「ナショナリズム」生成の歴史検証の中核部分。
前回は、欧米資本主義、西欧「文明」への劣等感から、「文明開化」が囃される一方、急速な資本主義化への「閉塞感」のなかで、「アジア主義」の萌芽も見られ、日清・日露戦争という「未開な朝鮮・中国」への侵略が開始された「明治時代」を見た。
そういう英仏の「文明」称揚に対して、「大正時代」には、日本にとって「漁夫の利」だった第一次世界大戦を経て、「大正デモクラシー」が盛り上がる一方、「一流の国民国家」になるために、ドイツ流の「国民固有」の「文化」確立が求められた。
「日本固有の文化」の中核として呼び出されたのが「天皇」だった。
明治政府の「発明」した天皇制が、もう一つの「発明」である民法・戸籍制度とともに、民衆に自然にあるとされた「郷土愛」と「祖先崇拝」を逆手にとって定着させられていった。
それは、1929年の世界恐慌で資本主義の閉塞感が一層強まり、明治の「閉塞」青年が、さらに「郷土喪失」「不安の思想」にかられた「デスパレート(やけっぱち)」青年として「国民的規模」で広がり、1932年建国の「満州国」という「アジア主義」が「希望」になるなかだった。
そして、「天皇」を中核とした「日本文化」を支えたのは、中国・朝鮮の影響から脱しようと本居宣長らが「古事記」から「発明」した「日本語」であり、さらに、「日本古来固有の美しい思想」とされた「もののあわれ」の「美学」だった。
それらの「発明」は、英がアイルランド侵略で英語を、仏がアルジェリア侵略で仏語を「発明」し、「国民国家」となっていったのと同時期の18世紀である。
これら「天皇」「日本文化」「日本語」「日本人」の強調が、1937年日中戦争直前に発布された「国体の本義」に詰め込まれ、『大東亜共栄圏』思想の核となった。
「古来から、国民が天皇を敬うのは義務ではなく止み難い自然の心の現れ。
だから、日本が用いる武は、天皇の大御心の発揮であり、八紘一宇(世界が天皇の家で平和に暮らす)のため、和のための武である。」
戦争準備に余念がない自民党の高市・三原・杉田などが「八紘一宇」と言うように、現代日本社会もこの意識、発想を払拭できていない。
民衆の意識に付け込んだ、「発明」あるいは捏造の寄せ木細工として、「草稿」筆者もようやく試みた「思想」の検証に、レポーターは「ナショナリズムについてあらためて考えたが難しかった」と言いながら、よく自分に引きつけて、いい議論を引き出した。
そして、「わかりやすかった」という声も出る中で、「ナショナリズム」からどう自由になるか、そういう国家をどう「越える」かの糸口も出された。
Talk
Reporter YY:「草稿」の参考文献の一つ、政治学者姜尚中(カン・サンジュン)の『ナショナリズム』(2001年)の冒頭を読んで、“これは私だ”とも思った。
「歴史修正主義のニヒリズム・・その自信のなさと未来の不透明さへの不安感、これこそが、ナショナリズムの発条であり、『想像された共同体』としてのネイションへの同一化の動力である。
その反動的な渦巻きは、もちろん決して孤立した現象ではない。
むしろ国民の広大な裾野に広がりつつあると言った方がいいかもしれない。
その理由は、『失業、不確実な老後、都市生活の危険性』といった安心や安全に対する脅威が、日常生活の深い部分で不気味に偏在化し、『民族的共同体』としてのネイションだけが避難すべき『安全な港』のように思えるからだ。」
そして、「草稿」131頁に「『郷土愛』を踏み台にした天皇制と、『発明』された『日本語』から断定された『もののあわれ』という『美学』は・・特攻の青年を描いた『永遠のゼロ』に通じる『男の美学』」という記述があるが、「美学」は女にとっても美学。
“自分の利益ではない何かのために自分を犠牲にするというあり方への憧憬”は、右翼だけでなく左翼にもあり、「美学」という感傷に人はごまかされやすい。
GO:「郷土愛」については、東京で生まれ育った自分には「ない」のだが、仕事で全国を回り農漁協の人と付き合うなかで、「ある」なということと、反面、東京への劣等感の裏返しかなと思うこともあった。
国家はその葛藤を利用すると思う。
ST:確かに東京の電車の本数とかすごいと思う。
YY:一方、シモーヌ・ヴュイエは、人にとって土地など根を張ることが必要とも言う。
(GO:たしかに、サルジニア国王が王になっただけのイタリアは、各地の自治意識が強く、自ら第二次大戦を止め、ナチスドイツと各地のパルティザンが戦い王制も廃止した。)
N:でも、日本では天皇の中央集権のなかで「郷土愛」で人々を分断した。
SE:私は「郷土」でいいことがなかったから「郷土愛」なんてない。
それでも、あるとされた「郷土愛」や「祖先崇拝」が「愛国心」にすり替えられていくっていうのが、わかりやすかった。
YS:批判を浴びながら若者の支持もあるという若手経済学者成田悠輔も、「もののあわれ」の思想を引用しながら「老人は集団自決しろ」と言った。
GO:「草稿」では「もののあわれ」を「自然」「美しい」と書いたが、その「思想」のもうひとつの側面は「潔い」ということか。
YS:そう、武士道、そして特攻に通じる。
UY:本居宣長は教科書に出て来るが、今日まで何をした奴か知らなかった。
今日の話で、より天皇制も嫌いになった。
I:本居宣長、それから彼を評価した小林秀雄は、日本語の大家、えらい人と言う感じだったが、目から鱗と言う感じ。
GO:レポーターも紹介したように、国家は「想像の共同体」でしかない。
しかし、それを「越える」、あるいは、それから自由になるのは容易ではないが、「思想」の検証の最後に「国境を歩いて越える民衆の思想」という項目を置いた。
YY:こう見て来ると、人に想像力があるのは大事なことだが、危険でもある。
宗教があるのもそういうこと。
自分は福祉の現場にいるが、そういう狭い範囲から発想していくことが大事なのかなと思う。
Mg:「想像」は人の性。
危険な破壊をもたらすかもしれない「想像」に謙虚でなければならないと思う。
人の不安を解消する「アイデンティティ」も、いろんな人がそれぞれ流動するなかであるものだと思う。
「立石物語」を創っていても思うが「正しい歴史」はないと思う。
「大きな歴史」よりも、個々の人の歴史から考える必要がある。
I:今度「ろじはん」で話す自分の経験と闘いでもそうだが、「美学」や「歴史」に彩られた「支配」に従うことが「ラク」ということもあったと思う。
Mg:レポーターの言った「自己犠牲」も、ある意味「ラク」だからで、無限ループの支配につながるとも思う。
次回4月28日プチ労151回は、『大東亜共栄圏』思想検証の最終回。
『大東亜共栄圏』思想の完成のために良いとこ取りをした二つの「アジア主義」-「満州国」建国の立役者石原莞爾が中国民衆の「民主」の力を前にして提唱し直した『東亜連盟論』とマルクス主義陣営の哲学者三木清が提唱した『東亜共同体論』を見る。
その上で、最後、「『国民国家』を越える民衆の思想」を検討してみる。
レポーターけんいちさん。
以上
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