2023年12月(1)
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12月16日(土) | ||||||||
たみとや望年会 Movie:Action2023@Tamitoya(8min) |
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たみとや望年会 参加者14人 会費1000円
上映ビデオ8分:Action2023@Tamitoya
メニュー:ローストチキン(生活クラブ)、エスカベーシュ(西洋南蛮漬け、白身揚げ魚と野菜のマリネ)、エビマカロニグラタン、野菜ディップ(差し入れ手作りもろみ&辛味噌)以上たみとや店長作。牛脛と大根煮込み、チキンスープバスマティライス
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12月10日(日)~11日(月) | ||||||||
12月のみんたみ | ||||||||
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12月10日(日) | ||||||||
Zac's Message from GAZA@国会前大集会 | ||||||||
ガザからのメッセージ - 三酔人の独り言 (goo.ne.jp) その場で、日本在住のザックさんは、2023.10.7以降に「ガザに住む友人Aさん」から日々受け取るメール・メッセージなどを読み上げた。Aさんとは電話でも時々話すという。ザックさんは「安全のため、彼の名前は言わない。彼は俺にとって弟のような存在」と言う。 以下、ザックさんがAさんから受け取ったメッセージの一部を紹介する。 「ガザからのメッセージ。俺たちは昨日、死にかけた。空は4時間以上も赤かった。彼らは俺らのキャンプを攻撃した。30発以上のロケット弾を撃ちこんだ。失った友人を悲しむべきか、子どもたちを悲しむべきか、分からない」 「ガザからのメッセージ。兄貴よ、今のところ俺は生きている。状況は日に日に悪化している。家族は遠く離れている。爆弾は至るところからやってきている」 「ガザからのメッセージ。おばさんと2人の姉妹の家が破壊された。彼女たちがその時に家にいたかどうか分からない。電話しても、繋がらない」 「ガザからのメッセージ。何が問題なのか分かるか? きょうだいや友人が殺されたのを知った時、何も感じなくなっている。悲しくもない。犠牲者が多すぎるとそうなる。死に慣れるような。でも、もっとひどいことなんだ」 「ガザからのメッセージ。90%のガザの人々には今、食べ物がない。乾いたパンを塩水につけて食べるだけだ。パンを買うために列に並ばなければならばい。自分の番が来るまで、少なくとも8時間はかかる」 「ガザからのメッセージ。停戦を待っている。彼らが俺の家を破壊しないことを願っている。冬がやってくるから、テント生活は耐えられない」 「ガザからのメッセージ。兄貴よ。もし俺が死んだら、許してくれ」 「ガザからのメッセージ。今日は、友人とその息子を埋葬した」 「ガザからのメッセージ。何回も言ったように、人を失い続けると、心が変わってしまう。それが普通になってしまう。しかし、生き残る場合、戦争が終わった後に全てを感じるようになる。2日前、親族を亡くした。彼らは絶滅させられたのだ」 「ガザからのメッセージ。誰かの家に避難所として滞在していた。2階にいた時、イスラエルは1階のガレージを爆撃した。俺は15回くらい死にかけた。兄弟よ。数えるのはもうやめた。死を目にするたびに、俺は友人たちに許しのメッセージを送る。今回はそうしなかった」 「ガザからのメッセージ。家族が生きているかどうか、分からない。俺は彼らから離れなければならなかった。イスラエルから電話があった。『ガザで何が起きているかを伝え続ければ、俺たちは君たちを殺す』と言われた。家族を守るために、離れなければならなかった」 「ガザからのメッセージ。兄弟よ。妹は今夜、出産をする」 「ガザからのメッセージ。彼らはいま俺がいる新しい避難所を破壊した。妹は出産したばかりだ。12日以上も食べ物がない。出産した妹は、(他の?)子どもに食べ物を与えることができない」 「ガザからのメッセージ。俺はとても年を取ったように感じる」 「ガザからのメッセージ。俺は死を望んでいる。今の状況よりはましだ。家族を養うことも守ることもできない。死だけだ。今の状況より死のほうが慈悲深い」 「ガザからのメッセージ。兄貴。俺は今のところ生きている」 「ガザからのメッセージ。俺からの言葉はもうない。あなたと家族が元気でいることを願っているよ」 「ガザからのメッセージ。今日、友人の父親とそのお兄さん、そしてそのお兄さんの妻が殺された」 「ガザからのメッセージ。全てが滅茶苦茶だよ。まるでジャングルの中に住んでいるかのようだ。休戦が始まってから、毎日6人以上の死体を見つけ出す。本当につらい思いだ。彼らには慈悲という気持ちがない」 「ガザからの電話。『休戦は延長されたのか? 午前10時までインターネットにアクセスできていなかった。だから今、モバイルデータが15メガバイトだけ残っているので、君に電話した。家族を家から避難させなければいけないかどうか、知りたい。休戦は延長されるのか?』と」 「ガザからのメッセージ。銃撃された。家に帰らせてくれない。家族を避難させてくれない。兄よ。俺はとても無力だ」 「ガザからのメッセージ。家に戻れた。彼らは俺の家を直接撃ってきた。俺たちは包囲されている。戦車だらけだ」 「ガザからのメッセージ。俺たちは包囲されている。家から出られない。彼らは俺の家の前で、16人以上を殺した。そのうちの4人が子供だ。彼らは家の入口を爆撃した。妹がケガをした。俺の頭からの出血は止まった。妹は両手を負傷している。救急車は来てくれない。イスラエル軍は俺たちの地域を軍事基地と見なしているからだってさ」 「ガザからのメッセージ。こうやって緊張していると、痛みをもう感じない。子どもの世話をしなければいけないから。俺はとても弱くなっている。食べ物も、水も、電気も、何もない」 「ガザからのメッセージ。どうすればいいのか分からない。もう滅茶苦茶だよ」 「ガザからのメッセージ。子どもたちを救うために、俺は本当に死ぬ覚悟でいる。俺には他に選択肢がない。俺たちのために祈ってください」 「ガザからのメッセージ。兄よ。俺の心はもう凍り付いている。実はもう、何も言葉にできることはない。俺たちのために祈ってくれ」 「ガザからのメッセージ。俺にはもう力がない。子どもたちは凍えている。子どもたちに服を与えたから、俺は下着しか着ていない。妹が目の前で死にかけている。妹にもしも何かあったら、俺は自分を殺す」 「ガザからのメッセージ。もう俺に選択肢なんてない」 「ガザからのメッセージ。体がとても乾いている。唇は白い。体は震えている。シオニストたちは、俺の周りから撤退した。明日の朝、病院に行く。歩けない」 「ガザからの電話。『病院に行った。半日分の食料をもらった。妹は肋骨と手が折れているから、置いていかなければならなかった。病院には14,000人もいる。もう僕はそこには居られない』と」 ザックさんは「この最後のメッセージが(3日前の)木曜日で、それ以来、連絡が1つもない」と心配げに語った。 ザックさんは最後に、「ある日、僕は彼(Aさん)に尋ねた。『君はガザから逃げるつもりか?』と。彼は答えた。『どこにも逃げない。絶対に逃げない。俺には2つの選択肢しかない。ガザで生きるか、ガザで死ぬかだ』」と語った。 *人物の呼称など、若干の修正・変更をした(2023.12.16)。 |
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12月8日(金) | ||||||||
たみとやジャーナル152号発行 日本のGAZA!? 基地と非正規の島沖縄!!! 「死すべきは基地!私たち労働者じゃない!!」 なぜ労働組合に青年たちは集まったか? |
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日本のGAZA!? 基地と非正規の島沖縄!!! 「死すべきは基地!私たち労働者じゃない!!」 なぜ労働組合に青年たちは集まったか? ~沖縄コールセンター労働組合富田晋委員長@ろじはん(路地裏反戦・反核会議)vol.8~ PDF版はこちら↓ 「自分まで闘ってきたような熱い気持ちになった」と声があがる臨場感で沖縄の闘いの歴史と今をレポート。生活に根ざして自然を守り労働者を守る豊かな闘いが続けられている。 1. 2005年、辺野古基地建設海上案阻止! 1995年少女暴行事件 おばあたち座り込み開始!集まる青年たち 海人(うみんちゅ)来たー! 辞めて来た作業員たち 2. 闘いの分岐 来れない青年たち‐非正規の島沖縄 選挙か労働組合か 「労働組合の力」-世界の民衆の連帯 逮捕と2009年鳩山の撤回 3. 労働組合に青年が集まった 2022年コールセンター労組結成 今、遂に分岐を超えた 変わる青年たち 1. 2005年、辺野古基地建設海上案阻止! 1995年少女暴行事件 Reporter(以下R):日本にある米軍基地の75%が集中する沖縄で、ずっと繰り返されてきた米軍兵士の暴行が、1995年、少女暴行事件となった。 沖縄島だけでも8万人、全島で12万人が抗議に結集し、普天間基地返還の見返りに(!)、名護市辺野古の沖の基地建設「海上案」が決定された。 暴行した兵士たちというのは、20歳前後で、高校で「君は成績悪いけど軍隊はどう?」と言われて入隊し、56個の人の殺し方やイスラムが如何に悪いか(?)を教え込まれ、憂さ晴らしにコザで遊ぶ。 最近でも、うるま市で、若い女性が足の腱を切られた上に暴行されて殺された。 1997年には、沖縄戦を知るおばあ、おじいたちが基地建設に反対する「命を守る会」を結成し、辺野古の浜に小屋が建てられた。 同年末に実施された名護市住民投票では反対が過半数を占めた。 自分は、2000年、高校生の時に沖縄に行き、しばらくして「命を守る会」の事務局員になったが、当時、一般道をバイクで走っていても絶えず戦車とすれ違う状況だった。 おばあたち座り込み開始!集まる青年たち R:2003年に、政府は「ボーリング調査」と称して基地建設を強行開始した。 早朝に防衛施設庁など約100人が来て駆けつけてもこちらは6人しかおらず、沖縄の市職労など諸団体が辺野古の浜に集まって闘争体制を協議した。 その結果、辺野古の浜に「テント村」が建てられ、おばあたちが座り込みを始め、青年たちも集まり始めた。 それでも、500人来た時にこちらは50人で、お互い投げ飛ばし合いだった。 「沖縄の闘争は非暴力」とよく言われるが、権力が暴力で来るのに、そんなことは言ってられない。 2004年には、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落し、駆けつけて驚いたのは、米軍がみな防護服を着ていることだった。 悪名高い劣化ウラン弾を防ぐために、ヘリの装甲に重金属ストロンチウム90が使われていて、ガイガーカウンターが振り切れた。 放射能汚染では、沖縄東南部の米海軍基地ホワイトビーチでも、原子力潜水艦が繰り返しそのまま横づけされ(1972年沖縄返還以来2021年までで沖縄返還以来の寄港回数600回以上:月平均1回)、反対の座り込みが続いている。 韓国から辺野古に来た人には「韓国では、米原潜は沖合でエンジンを止めさせてタグボートに引かせて寄港させている。」と言われた。 ヘリ墜落事件以降、総決起ということで「テント村」座り込みは500人にもなった。 政府は、地盤調査のために巨大なスパット台船を派遣し、海上に櫓も建てられた。 自分は船舶免許もとり、みんな、船とともに、櫓の上、海上への座り込みも開始したが、台船は大きな波を起こし、闘いは命がけだった。 YS:どうして500人も集まったのか? R:闘いにしっかりと軸があり、組織があったからだと思う。 戦争体験があり地域に根付いたおじいやおばあたちが「二度と戦争にさせん」、「海と浜とジュゴンを守る」としっかりと立ち、労組などがしっかりと組織した。 そして、豊かで楽しい闘争だった。 N:私も参加したが、「テント村」で座り込みの間には、糸の紡ぎ方、麻の編み方、沖縄の生き物の話、ホラ貝の吹き方、沖縄抵抗の歴史や実弾演習阻止の話、座り込みで引き抜かれない方法などなど、それは、それは、豊かで実のある話が聞けた。 R:海上櫓では、引きはがそうとする相手に対して鎖で自分を括りつけたり、毎日、塩を櫓に刷り込む人もいて、実際に塩は櫓の腐食に効果があった。 大人数の給食、櫓の人への弁当が毎日作られ、最初はおばあたちがやっていたが、「なんで女がやらんといけんの」と、自分も一日中ゴーヤを切っている時もあった。 海人(うみんちゅ)来たー! R:その後、海上櫓の占拠に手を焼いた政府が、当初、自ら協定したルールを破って、夜間作業を強行してきたので、こちらも大変だった。 しかし、それを見ていた沖縄島北部「やんばる」国頭村の漁師Kさんが言った。 「沖縄中の海人を数か月のうちに連れて来る」 2004年12月、実際に海人が大挙して来た! 警備に雇われていた辺野古の漁師たちを除いて、沖縄中の海人たちが「俺たちの海を守れ」と数十隻の船に大漁旗をたてて海上をやってきた!!感動だった。 10隻以上の船が各海上櫓を取り囲んだので政府は手を出せなくなった。 N:守ってくれていた海人は、すぐそこでタコをとって、生きているタコをさばいて ヤグラのみんなに御馳走してくれた。 R:そして、2005年9月、海上櫓は解体され、「海上案」は阻止された。 辞めて来た作業員たち R:大勝利のなかで、自分がさらに感動したのは、2003年基地建設強行開始の時から対峙してきた作業員の人たちのなかから、15人も仕事を辞めて来たことだった。 闘争のなかで話もした。 こんな仕事をしていていいのか。労働組合はどうなっているのか。 彼らも家族に同じことを言われていた。 2. 闘いの分岐 来れない青年たち‐非正規の島沖縄 R:「海上案」を阻止された政府は、今の「沿岸案」に変更したが、こちら側では、だんだん闘争に来る青年が減っていることに気づいた。 辺野古の青年会などに事情を聞きに行くと言われた。 「闘争に来れる労働者は公務員が多い。青年の多くは非正規労働者。おまけに整備工場などの取引の60%は米軍で切られたら終わり。基地建設に行くのも多い。政府が基地の見返りに税制特区を設けたのでコールセンターも多い。」 沖縄は基地の島であるとともに、非正規の島だ。 自分は青年の仲間を増やすために、賃労働を始め、地域合同労組「うるまユニオン」も立ち上げた。 選挙か労働組合か R:「海上案阻止」の大勝利の影響は大きかった。 名護市だけでなく沖縄県議会でも反対決議がされ、県政が変わってきた。 同時に、闘いの分岐がはっきりしてきた。 「守る会」で激論が続き、市職労の幹部などがはっきり言った。 「実力闘争は継続する。しかし、そのフリをするのだ。そして選挙で勝つことが肝心だ。」 自分は「闘争を深めるために、ほんとうに闘える労働組合をつくる」ことを主張した。 「労働組合の力」—世界の民衆の連帯 R:「労働組合の力」は、海上案阻止闘争の間に、ベトナムから来た老人に教えられてもいた。 80歳ぐらいの老人が辺野古の浜で言った。 「自分はベトナム戦争をベトコンの通信兵として経験したので、君たちは嫌いだ。 家族や友人、みんな殺された。君たちが殺した。 それでもここには、友人たちに会いに来た。 ベトナム戦争のある日、アメリカの重爆撃機B52が一機も飛ばない日があった。 まるで戦争が終わったようだったが、なぜか? しばらくして、B52が飛び立つ沖縄で米軍基地内の労働組合、全軍労の闘いのおかげだとわかった。だから、その友人たちに会いに来た。」 それで勉強してみると、全軍労、特にそのなかでも青年労働者たちが組織した牧港支部青年部を先頭に、沖縄復帰を前にした1970年代当初の闘いだった。 青年部長Oさんが発案したスローガンに誰もが驚き、しかし共感した。 「死すべきは基地!労働者は死んではならない」 当時の経験者に聞くと、基地でストライキなどして解雇されると家族も差別され、自殺者も相次いだという。 そのなかで「基地がなくて大丈夫か?」という疑問は当然あったが、次第に「基地のない社会をつくる」にまとまっていった。 彼らの激しい闘いで、復帰当時、非正規労働者が8~9割占める中で、労働組合の組織率は70%になっていたが、今、10%以下になっている。 SM :私も両親が、与論島(沖縄島の30キロ北方。沖縄復帰前はこの間の北緯27度線が日米の国境だった。)から福岡に行って炭鉱労働者になり、1960年の三池闘争では第一組合の闘士だったが、自分が通っていた小学校では第一組合の子どもだと言って先生からも差別された!! N:今も沖縄の米軍基地から、パレスチナにイスラエルの応援で2000人の米兵が派遣されているというが? R:そう。その意味で、闘争の最中には、偶然だが、パレスチナ人とイスラエル人が同時にやってきたことがある。 しかし、二人と話していると同じことを言っていた。 「沖縄の問題とパレスチナの問題は地続き。 パレスチナ問題は、中東のエネルギーを世界の主要国が支配するため。 あなたたちにも責任がある。 共通の敵を倒さなければならない。」 逮捕と2009年鳩山の撤回 R:そして、自分は、2008年東京で、G8(含むロシア)サミット粉砕のデモに参加して逮捕され20日間勾留された。 沖縄に帰ると「命を守る会」の緊急総会が開かれた。 前年に亡くなった代表のKさんの後任を決めることも懸案であり、若輩の自分を支持するおばあが8割を占めたが、逆に自分は会を除名された。 幹部は「逮捕などされて会の旗を汚した」と非難し、おばあは一人ひとり呼び出されて「つきあうな」と説得されたようだ。 その後、幹部が「選挙で勝つ」と言ったように、2009年、政権は民主党に交代した。 しかし、「辺野古基地建設は県外へ」を公約した鳩山首相は、10日間で公約を撤回し辞任した。 3. 労働組合に青年が集まった 2022年コールセンター労組結成 R:除名された後、自分はコールセンター労働者になった。 非正規が99%で、「隣と話さずひたすら件数をこなせ」という職場。 最初の損害保険のコールセンターで労働組合を立ち上げ、仲間の解雇撤回闘争。 会社が試験制度を導入して労働者を分断しようとしたため、拒否闘争をして委員長の自分が解雇され、スマートフォンのコールセンターへ。 残業しても、時給ベースの賃金は生活保護費以下という新たな職場でも、労働組合立ち上げに向けて飲み会や手作りの食事付きの勉強会などを続けた。 そして、2022年3月、沖縄コールセンター労働組合を結成した。 全体で100万人以上いるといわれる日本全国各地の数百か所のコールセンターの労働者に広がる産業別組合として、最初の職場の労組も含めて立ち上げた。 ST:どのくらいの人が集まったのか? R:若い人中心に数十人。 沖縄の労組の組織率が10%を切っている中で、職場の15~20%くらいが参加してくれている。 Y:今年には、ストライキもしたようだが? R:そう今年4月には、議論を重ねてストライキを実施した。 バス労働者だった「守る会」の代表Kさんも「だらけていた労働者もストライキで点呼とか言うと顔が変わる」と言っていたが、実際、ストライキで若い人が変わった。 N:時給アップとかを勝ち取るのは大変なのに、なぜ若い人が集まるんだろうか? R:今の時代を認識したことかなと思う。 今、遂に分岐を超えた R:南西諸島に次々と、直接、中国を狙うミサイルが配備され、自衛隊基地も増強されている。 沖縄戦を経験した石垣島のおばあは「この光景を見てはならんかった」と憤っている。 宮古島のおばあたちも本当に怒っている。 11月23日には、久しぶりに大きな県民大会が開かれる。 “争いよりも愛を”という大会スローガンに対して、ホワイトビーチで座り込みを続けるおじいは訴えている。 「抗議の時は終わった。戦争が開始された以上、阻止しなければならない」 玉城デニー知事は基地建設と闘っているように見えるが、ことあるごとに言う。 「自衛隊の演習は正しい」 限界だと思う。ついに「分岐」を超えて来た。怒り出している。 GO:ただ、大会スローガンの「愛」は、青年たちが考え出したというが? R:「選挙で」という大人たちが、それを利用しようと前面に出している気がする。 自分らは参加してゼネストを訴えようと思うが、参加者にそれは響いていくと思う。 N:東京でも、さよなら原発集会が「ワタシノミライ」と言う名前に変わり、若者が多く参加したが、彼らは、むしろ本質を知っていて、ポジティヴに集まる人を広げようとしている気もする。 変わる青年たち R:そう、本質的、階級的な認識を引き出すことかなと思う。 青年たちは組合で変わって来た。 執行委員のSさんは、お父さんが辺野古の警備船の船長で、最初、彼は「アベは神」と言い、辺野古闘争も「ちゃんと闘ってない感でアレルギーだった」と言っていた。 それが、最近、「僕、間違ってました。デニーさんたちが自分たちさえよければなんですね。」 そして、戦争についても「国と国の闘いだし、中国、朝鮮は嫌い」だと言っていたが、「やはり資本と労働者の闘いなんですね」 また、もう一人の執行委員Nさんは、自分が団体交渉で「戦争協力するな」と言い、会社が「戦争はおきない」と答えると、突然、初めて発言した。 「戦争は始まっている!」 抗議の時は終わった! 開始された戦争を阻止して基地のいらない社会をつくろう!! |
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12月4日(月)~5日(火) | ||||||||
山林探索@千葉鴨川市 | ||||||||
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