2023年11月(1)

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 11月26日(日)
プチ労147回 
 

2023-11-26プチ労147回まとめ>

参加者:11(YSさんが誘って来た留学生のScottish, Jさん初参加)   

中高年:青年=56 地域:それ以外=65

メニュー:Hungarian Goulash(牛筋のパプリカ煮込み)&バスマティライス

 

「近現代日本150年の労働者・民衆の闘いの歴史」第57

第四章 日中戦争から敗戦(1937年~1945)~昭和天皇の戦争

新「草稿」() アジア太平洋戦争(前半) 第四回

第二節 開戦‐東南アジア侵略と中国抗日闘争

   真珠湾ではなくアジアで開戦 レポーターともみさん 

(「草稿」42-61)

 

 今回は、アジア太平洋戦争「開戦」の前半。

   主作戦「東南アジア侵略」。その時間稼ぎが真珠湾攻撃

   1941128日、日本国内の人々の反応

   南京大虐殺以上に知られていない19422月シンガポール華僑大虐殺

   そのなかで「真面目にアジア解放を夢みた特務機関長」の姿

 

 レポーターは「知らなかったことばかり!」とその事項を具体的に列挙した。

そして、私たちはどうするのか?

そのために心理学が説く、戦争へのリスクをはらむ人の特性も紹介し結んだ。

「考えることを人任せにしない」

 

 くっきりと問いかけたレポートに、ウクライナ、パレスチナ、日本のGAZA-沖縄の事態に直面している参加者から途切れなく意見がだされた。

「心理学特性」の現象、根源、それに抗う行動のあり方、労働組合の力、仲間づくり、自分一人でなく自分たちへ、という「反戦の原点」を問うトークになった。

 

Report &Talk

 

Reporter ST:担当した「草稿」で知らなかったことばかり。

    アメリカとの戦争としか習わなかったが、二つの戦争があったし、フィリピンには戦後日本を支配したマッカーサーがいた。

   開戦時、日本人に「感動」と同時に、「冷静な感想」もかなりあったんだ。

これがもっと話し合って集まれば戦争にいたらなかったんじゃないか?

そうならずに戦争になった日本と同じということで、フランスの寓話的小説『茶色の朝』(フランク・パブロフ、1998年:突然「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことで起こる変化を描いた反ファシズムの寓話)を思い出した。

   なによりシンガポール大虐殺なんてまるで教えられなかった。

日本のアヘン取引独占が影の動機だった(「草稿」49)

 祖父を殺された人の回想では「出来ればいやな思い出を脳裏から追放したい。肉親や近親の死をいつまでも思っていると生きていく勇気と気力も萎えてくるから・・恨みはやすやすと消えるものではない」

GO:あわせて、シンガポールに建てられた「死難人民記念碑」に掘られるはずだった碑文を見ておいてほしい(「草稿」53-54)

 日本の悪辣非道を告発した碑文の最後は「戦争は罪悪である。・・シンガポール人民は、日本を含む平和を愛し、侵略・帝国主義・植民地主義に反対する広範な人民とともにありたい」と結ばれている。

YS:別名「血債の塔」だ。

 

R ST:④ 1937年に文部省が発行し、特務機関長が拠り所にした『国体の本義』は、知らなかったが、調べてみると「日本社会に存在していた『個人主義』をすべて否定」したものだったと言う。

 開戦の日に若い鉄道員も日記に書いている(「草稿」46-47)

「来るべきものが遂に来た・・個人主義的な一切の気持ちは何処かへすっ飛んでしまった。・・」

「個人主義」の例としては夏目漱石の『私の個人主義』(1923年。ちくま文庫『夏目漱石全集10』所収1988)がある。

「自己の個性の発展には、他人の個性を尊重する義務と責任がある」

 その意味で、『国体の本義』は、えらい人の命令で動けということ。

 今の小学校でも、先生が言うことや多数の意見を受け入れて「良い子」でいろということが多い。何も考えない人になる。

 

 心理学の本によれば、人には危険を招く心的特性があるという。

   都合の悪い情報を無視したり、過小評価する「正常性バイアス」

   一貫した態度を示したい、そうみられたいという「一貫性原理」。

その行為の責任は「誰かにいわれたから」と転化しやすい。

   目の前の光景が少しずつ変化しても気が付きにくい「変化盲」

   愛着やほこりを感じる所属集団には強い結びつきを感じ、異種の人は嫌悪し排除してもいいと感じる「疑似種」

 

 こうしたリスクがあるなかで、やはり、大事なことは“考えることを人任せにしない”ということだと思う。

 それは、自分を尊重するために、他人を尊重する責任、義務があるという『私の個人主義』。

 

N:私も精神福祉の仕事をするなかで心理学は勉強させられたが、分析に終始することが多い。でも、何と闘うべきかが、あらためて、よくわかった。

 

Mg:「正常性」というのか、よく都合よく過去を改竄して、反省しづらい。

GO:いいことしか覚えていないのはある。

 

YY:「一貫性」というか、自分の児童福祉の職場では、虐待防止のルールがあるが、逆にそれを逆手に取って、ノリノリになって、こどもをいじったりする職員もいる。

それに対して 中々注意しにくい、おかしいというには辞める覚悟も必要。

R ST:訪問看護の職場だが、その空気を読めというのが多い。

Ik:親戚などといても、まーいいか、と合わせてしまうことが多い。

YS:ナチスの指導原理(上位の者は無制約な権威と無責任、下位の者は絶対的な服従)もそう。憲法13条の「個人の尊重」が大事。

Ik:今のイスラエルのGAZA攻撃もそう。

 

Mg:「良い子」「悪い子」というより、自分の思想に対して、あるいは仕事に対してとにかく忠実になる、その行為が目的化するということではないか。

N:人のまじめな“労働者性”が利用される。逆にそれぞれは人のせいにする。

でも、前提は人が大事ということ。そうするためには、一人じゃなくて、組合で団結すること。

H:そう、資本は労働者を分断にかかる。

N1980年代に働いていた神奈川県立重度心身障碍者施設は、大量殺人のやまゆり園の姉妹施設だったが、当時、県職労が最も強い拠点だった。その後、それが民営化され、組合もなくなったところで事件が起きた。

GOHがアメアパで解雇撤回を勝ち取った時も、当初、二人で立ち上がったのがよかった。

R ST:たしかに、おかしいと思っても一人では難しい。

H:一人じゃだめ。

N:仲間が必要。

 

J:仲間を広げる意味では、SNSなどでも、人の志向により左か右に情報が偏りやすい。

YS:なので、ネットでは、偏りをなくすBRAVというアプリを入れてから検索している。

J:だから、大学院でも、自分が議論で勝つかどうかではなく、いろんな考えを知るためにも、いわゆるDebateを心掛けている。

N:このプチ労の場も、“みんなで認識を創る”をモットーにしている。

Ik:そう、ここは、各人なりの意見を言って、認めたうえで、語り合って、腑に落ちていく感じがある。

R ST:予定調和じゃだめですよね。

 

 来月12月は、16日土曜日午後6時から、ろじはんと合同で望年会。

 次回プチ労148回は、来年128日でレポーターむぎたさん。

 開戦前後から日本軍の激しい攻撃を受けて危機に瀕したが、土地革命大運動で克服していった抗日根拠地の中国農民の姿。

以上

   
   
   
   
 11月19日(日)
11.19全国労働者総決起集会@日比谷野音3000人
 




   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 11月18日(土)
ろじはんvol8&労働者集会前夜祭 

ろじはん(路地裏反戦・反核会議@たみとや)vol.8 まとめ  2023.11.18

参加者:10

rojihan8.pdf へのリンク 

<日本のGAZA!? 基地と非正規の島沖縄!!!

     「死すべきは基地!私たち労働者じゃない!!」

              なぜ労働組合に青年たちは集まったか?>

 ~ゲスト・レポーター沖縄コールセンター労働組合富田晋委員長~

 

 「自分まで闘ってきたような熱い気持ちになった」という声があがる臨場感で沖縄の闘いの歴史と今をレポート。

沖縄で、生活に根ざして、自然を守り、労働者を守る、豊かな闘いが続けられている。

闘いとは何か?あらためて教えられた。

そして今、「抗議の時は終わった。戦争が開始された以上、阻止しなければならない」

「基地のいらない社会をつくろう」

 

:小見出し:

 

1.    2005年、辺野古基地建設海上案阻止!

 

1995年少女暴行事件

おばあたち座り込み開始!集まる青年たち

海人(うみんちゅ)来たー!

辞めて来た作業員たち

 

2.    闘いの分岐

 

来れない青年たち‐非正規の島沖縄

選挙か労働組合か

「労働組合の力」-世界の民衆の連帯

逮捕と2009年鳩山の撤回

 

3.    労働組合に青年が集まった

 

2022年コールセンター労組結成

今、遂に分岐を超えた

変わる青年たち

 

1.    2005年、辺野古基地建設海上案阻止!

 

1995年少女暴行事件

 

Reporter(以下R):日本にある米軍基地の75%が集中する沖縄で、ずっと繰り返されてきた米軍兵士の暴行が、1995年、少女暴行事件となった。

沖縄島だけでも8万人、全島で12万人が抗議に結集し、普天間基地返還の見返りに()、名護市辺野古の沖の基地建設「海上案」が決定された。

 暴行した兵士たちというのは、20歳前後で、高校で「君は成績悪いけど軍隊はどう?」と言われて入隊し、56個の人の殺し方やイスラムが如何に悪いか()を教え込まれ、憂さ晴らしにコザで遊ぶ。

 最近でも、うるま市で、若い女性が足の腱を切られた上に暴行されて殺された。

 1997年には、沖縄戦を知るおばあ、おじいたちが基地建設に反対する「命を守る会」を結成し、辺野古の浜に小屋が建てられた。

 同年末に実施された名護市住民投票では反対が過半数を占めた。

 自分は、2000年、高校生の時に沖縄に行き、しばらくして「命を守る会」の事務局員になったが、当時、一般道をバイクで走っていても絶えず戦車とすれ違う状況だった。

 

おばあたち座り込み開始!集まる青年たち

 

R2003年に、政府は「ボーリング調査」と称して基地建設を強行開始した。

早朝に防衛施設庁など約100人が来て駆けつけてもこちらは6人しかおらず、沖縄の市職労など諸団体が辺野古の浜に集まって闘争体制を協議した。

その結果、辺野古の浜に「テント村」が建てられ、おばあたちが座り込みを始め、青年たちも集まり始めた。

 それでも、500人来た時にこちらは50人で、お互い投げ飛ばし合いだった。

 「沖縄の闘争は非暴力」とよく言われるが、権力が暴力で来るのに、そんなことは言ってられない。

 2004年には、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落し、駆けつけて驚いたのは、米軍がみな防護服を着ていることだった。

 悪名高い劣化ウラン弾を防ぐために、ヘリの装甲に重金属ストロンチウム90が使われていて、ガイガーカウンターが振り切れた。

 放射能汚染では、沖縄東南部の米海軍基地ホワイトビーチでも、原子力潜水艦が繰り返しそのまま横づけされ(1972年沖縄返還以来2021年までで沖縄返還以来の寄港回数600回以上:月平均1)、反対の座り込みが続いている。

 韓国から辺野古に来た人には「韓国では、米原潜は沖合でエンジンを止めさせてタグボートに引かせて寄港させている。」と言われた。

 ヘリ墜落事件以降、総決起ということで「テント村」座り込みは500人にもなった。

 政府は、地盤調査のために巨大なスパット台船を派遣し、海上に櫓も建てられた。

 自分は船舶免許もとり、みんな、船とともに、櫓の上、海上への座り込みも開始したが、台船は大きな波を起こし、闘いは命がけだった。

 

YS:どうして500人も集まったのか?

R:闘いにしっかりと軸があり、組織があったからだと思う。

 戦争体験があり地域に根付いたおじいやおばあたちが「二度と戦争にさせん」、「海と浜とジュゴンを守る」としっかりと立ち、労組などがしっかりと組織した。

 そして、豊かで楽しい闘争だった。

 

N:私も参加したが、「テント村」で座り込みの間には、糸の紡ぎ方、麻の編み方、沖縄の生き物の話、ホラ貝の吹き方、沖縄抵抗の歴史や実弾演習阻止の話、座り込みで引き抜かれない方法などなど、それは、それは、豊かで実のある話が聞けた。

R:海上櫓では、引きはがそうとする相手に対して鎖で自分を括りつけたり、毎日、塩を櫓に刷り込む人もいて、実際に塩は櫓の腐食に効果があった。

大人数の給食、櫓の人への弁当が毎日作られ、最初はおばあたちがやっていたが、「なんで女がやらんといけんの」と、自分も一日中ゴーヤを切っている時もあった。

 

海人(うみんちゅ)来たー!

 

R:その後、海上櫓の占拠に手を焼いた政府が、当初、自ら協定したルールを破って、夜間作業を強行してきたので、こちらも大変だった。

 しかし、それを見ていた沖縄島北部「やんばる」国頭村の漁師Kさんが言った。

「沖縄中の海人を数か月のうちに連れて来る」

 200412月、実際に海人が大挙して来た!

 警備に雇われていた辺野古の漁師たちを除いて、沖縄中の海人たちが「俺たちの海を守れ」と数十隻の船に大漁旗をたてて海上をやってきた!!感動だった。

 10隻以上の船が各海上櫓を取り囲んだので政府は手を出せなくなった。

 

N守ってくれていた海人は、すぐそこでタコをとって、生きているタコをさばいて ヤグラのみんなに御馳走してくれた。

R:そして、20059月、海上櫓は解体され、「海上案」は阻止された。

 

辞めて来た作業員たち

 

R:大勝利のなかで、自分がさらに感動したのは、2003年基地建設強行開始の時から対峙してきた作業員の人たちのなかから、15人も仕事を辞めて来たことだった。

 闘争のなかで話もした。

 こんな仕事をしていていいのか。労働組合はどうなっているのか。

 彼らも家族に同じことを言われていた。

 

 

2.    闘いの分岐

 

来れない青年たち‐非正規の島沖縄

 

R:「海上案」を阻止された政府は、今の「沿岸案」に変更したが、こちら側では、だんだん闘争に来る青年が減っていることに気づいた。

 辺野古の青年会などに事情を聞きに行くと言われた。

「闘争に来れる労働者は公務員が多い。青年の多くは非正規労働者。おまけに整備工場などの取引の60%は米軍で切られたら終わり。基地建設に行くのも多い。政府が基地の見返りに税制特区を設けたのでコールセンターも多い。」

 

沖縄は基地の島であるとともに、非正規の島だ。

 自分は青年の仲間を増やすために、賃労働を始め、地域合同労組「うるまユニオン」も立ち上げた。

選挙か労働組合か

 

R:「海上案阻止」の大勝利の影響は大きかった。

 名護市だけでなく沖縄県議会でも反対決議がされ、県政が変わってきた。

 同時に、闘いの分岐がはっきりしてきた。

 「守る会」で激論が続き、市職労の幹部などがはっきり言った。

「実力闘争は継続する。しかし、そのフリをするのだ。そして選挙で勝つことが肝心だ。」

 自分は「闘争を深めるために、ほんとうに闘える労働組合をつくる」ことを主張した。

 

「労働組合の力」—世界の民衆の連帯

 

R:「労働組合の力」は、海上案阻止闘争の間に、ベトナムから来た老人に教えられてもいた。

 80歳ぐらいの老人が辺野古の浜で言った。

「自分はベトナム戦争をベトコンの通信兵として経験したので、君たちは嫌いだ。

 家族や友人、みんな殺された。君たちが殺した。

 それでもここには、友人たちに会いに来た。

 ベトナム戦争のある日、アメリカの重爆撃機B52が一機も飛ばない日があった。

 まるで戦争が終わったようだったが、なぜか?

しばらくして、B52が飛び立つ沖縄で米軍基地内の労働組合、全軍労の闘いのおかげだとわかった。だから、その友人たちに会いに来た。」

 それで勉強してみると、全軍労、特にそのなかでも青年労働者たちが組織した牧港支部青年部を先頭に、沖縄復帰を前にした1970年代当初の闘いだった。

 青年部長Oさんが発案したスローガンに誰もが驚き、しかし共感した。

「死すべきは基地!労働者は死んではならない」

 

 

 当時の経験者に聞くと、基地でストライキなどして解雇されると家族も差別され、自殺者も相次いだという。

 そのなかで「基地がなくて大丈夫か?」という疑問は当然あったが、次第に「基地のない社会をつくる」にまとまっていった。

 彼らの激しい闘いで、復帰当時、非正規労働者が89割占める中で、労働組合の組織率は70%になっていたが、今、10%以下になっている。

 

SM :私も両親が、与論島(沖縄島の30キロ北方。沖縄復帰前はこの間の北緯27度線が日米の国境だった。)から福岡に行って炭鉱労働者になり、1960年の三池闘争では第一組合の闘士だったが、自分が通っていた小学校では第一組合の子どもだと言って先生からも差別された!!

 

N:今も沖縄の米軍基地から、パレスチナにイスラエルの応援で2000人の米兵が派遣されているというが?

R:そう。その意味で、闘争の最中には、偶然だが、パレスチナ人とイスラエル人が同時にやってきたことがある。

 しかし、二人と話していると同じことを言っていた。

「沖縄の問題とパレスチナの問題は地続き。

 パレスチナ問題は、中東のエネルギーを世界の主要国が支配するため。

 あなたたちにも責任がある。

 共通の敵を倒さなければならない。」

 

逮捕と2009年鳩山の撤回

 

R:そして、自分は、2008年東京で、G8(含むロシア)サミット粉砕のデモに参加して逮捕され20日間勾留された。

 沖縄に帰ると「命を守る会」の緊急総会が開かれた。

 前年に亡くなった代表のKさんの後任を決めることも懸案であり、若輩の自分を支持するおばあが8割を占めたが、逆に自分は会を除名された。

 幹部は「逮捕などされて会の旗を汚した」と非難し、おばあは一人ひとり呼び出されて「つきあうな」と説得されたようだ。

 その後、幹部が「選挙で勝つ」と言ったように、2009年、政権は民主党に交代した。

 しかし、「辺野古基地建設は県外へ」を公約した鳩山首相は、10日間で公約を撤回し辞任した。

 

 

 

3.    労働組合に青年が集まった

 

2022年コールセンター労組結成

 

R:除名された後、自分はコールセンター労働者になった。

非正規が99%で、「隣と話さずひたすら件数をこなせ」という職場。

最初の損害保険のコールセンターで労働組合を立ち上げ、仲間の解雇撤回闘争。

会社が試験制度を導入して労働者を分断しようとしたため、拒否闘争をして委員長の自分が解雇され、スマートフォンのコールセンターへ。

残業しても、時給ベースの賃金は生活保護費以下という新たな職場でも、労働組合立ち上げに向けて飲み会や手作りの食事付きの勉強会などを続けた。

そして、20223月、沖縄コールセンター労働組合を結成した。

全体で100万人以上いるといわれる日本全国各地の数百か所のコールセンターの労働者に広がる産業別組合として、最初の職場の労組も含めて立ち上げた。

 

 

ST:どのくらいの人が集まったのか?

R:若い人中心に数十人。

 沖縄の労組の組織率が10%を切っている中で、職場の1520%くらいが参加してくれている。

Y:今年には、ストライキもしたようだが?

R:そう今年4月には、議論を重ねてストライキを実施した。

 バス労働者だった「守る会」の代表Kさんも「だらけていた労働者もストライキで点呼とか言うと顔が変わる」と言っていたが、実際、ストライキで若い人が変わった。

N:時給アップとかを勝ち取るのは大変なのに、なぜ若い人が集まるんだろうか?

R:今の時代を認識したことかなと思う。

 

今、遂に分岐を超えた

 

R:南西諸島に次々と、直接、中国を狙うミサイルが配備され、自衛隊基地も増強されている。

 沖縄戦を経験した石垣島のおばあは「この光景を見てはならんかった」と憤っている。

 宮古島のおばあたちも本当に怒っている。

 1123日には、久しぶりに大きな県民大会が開かれる。

 “争いよりも愛を”という大会スローガンに対して、ホワイトビーチで座り込みを続けるおじいは訴えている。

「抗議の時は終わった。戦争が開始された以上、阻止しなければならない」

 玉城デニー知事は基地建設と闘っているように見えるが、ことあるごとに言う。

「自衛隊の演習は正しい」

 限界だと思う。ついに「分岐」を超えて来た。怒り出している。

 

GO:ただ、大会スローガンの「愛」は、青年たちが考え出したというが?

R:「選挙で」という大人たちが、それを利用しようと前面に出している気がする。

自分らは参加してゼネストを訴えようと思うが、参加者にそれは響いていくと思う。

N:東京でも、さよなら原発集会が「ワタシノミライ」と言う名前に変わり、若者が多く参加したが、彼らは、むしろ本質を知っていて、ポジティヴに集まる人を広げようとしている気もする。

 

変わる青年たち

 

R:そう、本質的、階級的な認識を引き出すことかなと思う。

青年たちは組合で変わって来た。

 執行委員のSさんは、お父さんが辺野古の警備船の船長で、最初、彼は「アベは神」と言い、辺野古闘争も「ちゃんと闘ってない感でアレルギーだった」と言っていた。

それが、最近、「僕、間違ってました。デニーさんたちが自分たちさえよければなんですね。」

そして、戦争についても「国と国の闘いだし、中国、朝鮮は嫌い」だと言っていたが、「やはり資本と労働者の闘いなんですね」

 また、もう一人の執行委員Nさんは、自分が団体交渉で「戦争協力するな」と言い、会社が「戦争はおきない」と答えると、突然、初めて発言した。

 「戦争は始まっている!」 

 

以上

   
   
   
   
   

 

 

 
11月16日(木) 
 5時たみゴジラ#95-97:受験の秋
 
   
   
   
   

11月5日(日)~8日【水】 
11月のみんたみ 
 
   
   
   
11月4日(土) 
 プチ労レポーターミーティング
 
   
   



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