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 1月29日(日)
プチ労再開138回
新年たみとや新企画「路地裏反戦・反核アピール委員会」呼びかけ 

2023-1-29プチ労138回まとめ>

参加者:10(日本の遠方から8か月ぶりAS、スペインから3年ぶりHK、初参加KMさん) 中高年:青年=37 地域:それ以外=55

メニュー:ハンガリーグーヤッシュ(ハンガリー農民料理。牛肉のパプリカ煮込み)&ローストチキンサラダ(望年会用)、バスマティ米

 

「近現代日本150年の労働者・民衆の闘いの歴史」第48

第四章 日中戦争から敗戦(1937年~1945)~昭和天皇の戦争

「草稿」第四章()中国民衆の抗日闘争への敗北(第十回)

第五節 武漢陥落‐大量難民と毒ガス戦 

    徐州(シェイチョウ)会戦と『麦と兵隊』(「草稿」87頁~106)

            遠方から駆け付けてくれたレポーターASさん

 

 今回は、日中戦争中、日本国内で大ベストセラーになった従軍小説『麦と兵隊』の作者で、国民的「兵隊作家」となり、敗戦後は、戦争責任に苦悩し総括的な小説を書き上げた直後に、52歳で自死した火野葦平の生き様を辿った。

 なお、敗戦後の彼を見守っていたのは、自死した当時、中学生の甥、後にアフガニスタンで民衆のための運河開発に尽くした中村哲さんだった。

 遠方から駆け付けてくれたレポーターは、『草稿』だけでなく、他の著書も踏まえた深いレポートをして、感動した。

 現代の我々の問題である、「国家」「民族」の目線と、それらを越えて、人間を人間として見る目線との間を揺れ動く葦平の姿をよく伝えてくれた。

 それは、「自分一人の実感だけが信じられる」と総括した葦平が、自死せずに「自分たちの実感」を取り戻すための原点を見せた。

 参加者からは、「リアル!」(KM)という声があがった。

 また、「あらためて、たみとやで『路地裏反戦・反核アピール委員会』(呼び掛け文後添)を立ち上げようとしている時に、どこで踏ん張るのか? 誰の命を守るのか? 戦争では、同じ労働者、民衆が殺されるんだ、という、まさに、持つべき視点があった。」(N)という感想も出た。

 

Report

 

Reporter AS

 『麦と兵隊』(以下『麦』)は小6の時に読んだ。修学旅行が沖縄だったので学校図書館で戦争に関する本が並んでいる棚で手に取ったのがきっかけ。その後、『土と兵隊』(以下『土』)も読んだ。が、今回あらためて調べてみて、当時と違う感想を持った。

 まず、葦平の生涯。

『草稿』99頁からあるように、九州の石炭積出港、北九州若松の沖仲士を仕切る玉井組の頭領の息子として生まれた。中国の文学が大好きで早稲田大学に入りマルクス主義の影響も受けた。在学中に徴兵され国内で最初の兵役に就いたが、レーニン本を持っているのを見つかり強制除隊。跡継ぎにしたかった父親が手をまわし早稲田の籍を抜いたので玉井組の若頭になる。

折しも1930年代、進む機械化・合理化に対して、沖仲士労組を結成し「有名な八幡製鉄争議とも並ぶ歴史的な争議」といわれるゼネストを組織し勝利。

しかし、半年あまり後、「満州事変」に続く上海事変の最中、三井物産の懇請によるとはいえ、50人の沖仲士を率いて、中国人労働者のスト「破り」に加担。

初の戦場体験、沖仲士50人は中国人労働者との争闘による死者などで21人に減少して混乱・混迷のなか帰国した末にゼネストの件で治安維持法違反検挙。

共産党にも疑惑を抱いた葦平は「転向」を決意し文学に戻る。そして、玉井組出入りの糞尿業者の生き様を描いた短編『糞尿譚』で第六回芥川賞受賞。

今でもネットで読めるので見てほしいが、沖仲士にも蔑まれた汲み取り労働者にスポットをあてて格差、貧困を描いた。

『草稿』88頁に戻るが、芥川賞受賞式は、葦平二度目の従軍地、南京大虐殺の出発点となった中国杭州湾で行われ、直後、陸軍報道班に引き抜かれ、徐州作戦に班員として従軍し、『麦』を書き上げた。

従軍中の兵士に敢えて?芥川賞を授与したことを含めて、当局の戦争賛美のための利用といえた。

『草稿』にもあるように、発表されたのは、プチ労で前にやった石川達三の南京大虐殺に至る過程を描いた『生きている兵隊』が発禁となった直後。しかし、同書は中国で翻訳され、日本軍の行動が国際世論の批判を浴びていた。

徐州作戦自体も大失敗だった。

『岸壁の母』でも知られる著名な作詞家藤田まさと作詞の「徐州、徐州と人馬は進む」の歌いだしで大ヒットした歌も含めて、ピンチをチャンス!というメディア作戦だった。

小説『麦』は、なぜヒットしたか?

54日から22日の行軍を日記スタイルで描いた『麦』は、題名どおり、広大な麦畑の描写の印象が強く牧歌的でもある。石川の『生きている兵隊』は、重苦しいし、読んでいて疲弊するのでヒットしなかっただろう。

そして、行軍する兵士の日常から、兵士への愛情、敬意を経て、まさに、天皇、大日本帝国である「祖国」に感激する描写がある。

一方、唯一の激しい戦闘に遭遇した516日の記述では、「祖国」が「故国」に変わる。(『草稿』95頁。朗読by MG)

「生死の境に完全に投げ出されてしまった。・・・迫撃砲弾は幾つも身辺に落下し炸裂する。その度に何人も犠牲者が出て、血の色を見せられる。・・・貴重な生命がこんなにも無造作に傷つけられたということに対して激しい憤怒の感情に捕らわれた。・・・私は兵隊とともに突撃しようと思った。・・・支那兵に対して、激しい憎悪に駆られた。・・・私は祖国という言葉が熱いもののように胸一ぱいに拡がって来るのを感じた。

・・・・

突撃は決行せられず、時間ばかりが流れた。私は死にたくないと思った。死にたくない。今此処で死にたくない。・・・私は母のつくってくれたお守り袋を握ってみた。私は日本に居る肉親の人達のまごころが自分を救ってくれるかも知れぬと思った。・・・生きたい。生きられるだけは生きたい、とそう思うと、又も故国のことが思われて、胸が一ぱいになり、涙が出そうになった。・・・

冷たい風がすうっと来て頬を流れた。お父さんお母さん、生きていました、生きていました、ありがとうございました、と云ってみた。」(516)

ヒットの要因はここらにあったのではないか。

実際、『麦』に感動した藤田が作詞した歌いだしも初めは「生きていた 生きていた 生きていました」だった。

しかし、陸軍検閲で変えられた。

葦平も当局のメディア戦略を理解しながらも、できるだけありのままを書こうとはした。

敗戦後、戦争協力者として公職追放された葦平は、その解除後、苦悩しながら、自らの総括として『革命前夜』という小説を書き上げた。

出版する1週間前、53歳の誕生日前日の1960124日自死するが、病死とされ事実が公表されたのは13回忌の1972年だった。

『革命前夜』の最後に総括の結論を綴っている。(『草稿』105)

「・・・一瞬一瞬の正直な実感こそが、人間の行動の中で信じられる唯一のものであるまいか。真実には盲目であり、虚妄に向かって感動したとしても、それは尊ばるべきではあるまいか。滑稽と暗愚の中にこそ、人間がいるのではないか。戦争も、国家も、歴史も、なにがなにやらわからない。革命の名のもとに大混乱がおこっているが、その中で信じられるのは人間の、自分の、自分一人の実感だけだ。」(「革命前後」第25章)

「自分一人だけの実感」、そして自死。悲しい総括である。

ストライキを組織した「自分たちの実感」(『草稿』106)の目線が変わっていなかったら。。。

葦平の本心がわかったとは言えない。

どうして、ストの時のように見渡せなかったのか?

 

葦平は、中国人への優しい目線も持っていた。

『土』は、徐州作戦の前の杭州湾上陸記だった。

当時の従軍作家林芙美子は「中国人の死体は日本人と感じが違う」などと書いていたが、葦平の『土』の描写を聞いてほしい。

(占領したトーチカの中に入って)私達が近づくと、その呻き声は一層激しくなった。しかし、それは呻き声ではなかった。それは泣いていたのだ。私は・・・兵隊に手を掛けた。来来。するとその二人の兵隊はやっと立ち上った。私は暗闇からにゅっと銃眼の光の中に出た兵隊の顔が、あまりに美しかったので、どきりとした。二人とも同じ位若く、殆ど少年であったのだ。しかも二人とも女かと見まごうばかり美しかった。二人は顔中を泣き腫らし、私の肩に両方からより縋った。・・・兵隊はしきりに首に手を当てて、殺さないでくれと、と身振りをした。私は、よしよし、というふうにうなづいた。少年兵の悲しみにつぶれた顔に、かすかな喜びに似た影がかすめたように思った。私は胸の中に説明しようのない、淋しさとも、怒りともつかぬ感情が渦巻くのを感じた。・・・

(しばらく捕虜から離れて戻り)見ると、散兵豪のなかに、支那兵の屍骸が投げ込まれてある。・・・私は暗然とした思いで、又も、胸の中に、怒りの感情が渦巻くのを覚えた。・・・ふと、妙なものに気づいた。屍骸が動いているのだった。・・・彼は懇願するような眼附きで、私と自分の胸とを交互に示した。・・・瀕死の支那兵の胸に照準を附けると、引き金を引いた。支那兵は動かなくなった。山崎小隊長が急いで走って来て、どうして、敵中で無意味な発砲をするのかと言った。どうして、こんな無慙なことをするのかと言いたかったが、それは伝えなかった。重い気持ちで、私はそこを離れた。」(「土と兵隊」19371113)

中国文学、文化を愛好した葦平が、もし芥川賞作家でなければとも思わせる描写である。

まとまりませんが。

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

次回、226日プチ労139回は、日本が、大失敗だった徐州作戦を挽回しようとして、日中戦争中最大の40万人を動員した首都武漢攻略。しかし、それは、「大消耗戦」であり、戦争中最大の難民を発生させた。

そして、当然のように、武漢に設置された「慰安所」には、戦後、在日韓国人として唯一人、日本政府に対して「元『慰安婦』謝罪・請求訴訟」を起こした宋神道(ソン・シンド)さんがいた。

レポーターなおこさん。

 

以上

 
   
   
 新年たみとや新企画「路地裏反戦・反核アピール委員会」呼びかけ

 1月16日(月)
沖コル労組委員長入院!団結!!! 
 

111日、沖縄コールセンター労組委員長、わが息子が脳梗塞発症。

でも、16日からの入院闘病で世話してくれているMさんから連絡。

「先程、沖コル執行委員のMくんとsくんと会ってきました

委員長の病状がどんなであっても、
どんな労働者も安心して働ける職場に僕たちの手で変えていこう!
ということを2人が確認したと聞いて、
感動したし、Mくん先頭に頼もしく思いました

12月のビラまきや執行委員会、春闘、3月の大会も、
委員長がいなくても、どんな不格好でも自分たちでやり切ろう。
それが委員長への一番の闘病支援だって

嬉しかったので報告です

   

1月12日(木) 
 新年5時たみゴジラ開始#59:セルフ親子丼
 
   
   
   

 1月5日(木)
 みんたみで収穫したきんかん大好評♪
 
たみとや店頭で大好評♪
パティシエ以上のジャムにいてくれた方も♪
   
   
   

2023年1月1日(日) 
 闘春!初日の出@伊豆城ガ崎海岸
 




 2022年12月
コロナ等で休業
12月15日たみとや再開
恒例望年会は中止 



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