レポーターが「担当してとても面白かった」と言ってくれた1920年代後半の朝鮮・中国民衆の民族解放・階級解放の闘争と在日朝鮮人の闘い。
この時期、朝鮮では、日本の激しい弾圧のなかで、世界でも有名になった元山(ウオンサン)労働者のゼネスト、不二興業大小作争議などが激しく闘われ、民族解放の統一戦線「新幹会(シンガンフェ)」成立の動力となった。
さらに、中国では、上海ゼネスト、香港・広東ゼネストなど数百万人単位の労働者の蜂起と1千万人の農民同盟の組織など、第二次大戦後の中国革命の一歩手前まで迫った。
一方、在日朝鮮人の運動は、母国の労働運動を超える勢いを示したものの、日本人労働運動にも根強い差別感のなかで、その発展には大きな課題を残した。
こうした歴史の流れを踏まえつつ、レポーターの清新な問題提起で、青年Yさんも初参加するなか、議論が盛り上がった。
当時と同様の低賃金労働力使い捨てでしかない「移民政策」が強行採決された現代、あらためて問い直すべき、民族とは、国家とは、差別とは、階級の解放との関連とは。。。
同時に、来年からの1930年代の歴史を見ていく上で、貴重な入口をつくってくれた。
●民族と国家
R(レポーター):あえて、定式のようなものを考えてみた。
ひとつは、単一民族といわれる国。日本は、その国益≒資本の利益のための侵略に「民族の誇り」が利用された。
一方、中国は多民族の国で、歴史的に国家権力はいろいろ変わり、パールバックが「大地」で描いた「誰が権力者でも同じ」という農民のように民衆が権力に対して冷めている。だから、1920年代、自存自衛のために労働者・農民は階級として団結した。
それは、当然、外国資本に対する多民族の解放であり階級の解放と統一された闘争となった。
しかし、今の中国のように権力が「統一」され資本が集中すると侵略も行う。
さらに、欧州は、「白人でなければ人でない」という民族意識で侵略を行い、国家はそれを助ける組織になっているような気がする。
今は、国家が揺らいで、あらためて、白人意識が強調され、日本と同じように、白人の「単一民族国家」として極右が進出している?
M:アメリカも中国のような「多民族国家」かな?
G:そうも見えるが、1930年代では、ドイツとアメリカも見るが、そこで台頭するナチスのユダヤ人迫害の法的モデルはアメリカの人種法制だったともいわれ、今のトランプもそうだが、どちらかといえば「欧州白人国家」に近いのでは。
●差別を乗り越えるとは
R:在日朝鮮人は「差別と虐待という二重の桎梏」にいて団結して闘わなければ生きていけなかったが、団結するほど周囲から脅威に見られ差別が進むというジレンマがあった。じゃあ被差別者はどう闘うのかというより、差別する側が変わるしかない?
そこで、自分が好きな大相撲にはモンゴル人力士の差別があるが、横綱白鵬は「自分の国を愛せなければ他の国も愛せないのでは」と言った。逆に、自分の国で閉塞感や孤独感があると他国への侵略へとつながる「愛国心」になるのか。
M:ところで、最近、「和解のために」という韓国の人が書いている本を紹介されたんだが、どこかで、日本の侵略についての「手打ち」のようなことがありうるんだろうか?
U:いや、とにかく日本は一切「謝っていない」。それから自分は、どんな「愛国心」もないと思う。「遠い世界に」という歌は好きだが、最後の「これが日本だ、私の国だ」はいやだ。「私の地球だ」にすべき。
G:1930年代の在日朝鮮人運動をもう少し詳しく見ていて、朝鮮人の民族解放の思いは「自分はいったい何者だ」という、「自己のアイデンティを求めるナショナリズム」だという人がいて、それに対して、日本のは「侵略のナショナリズム」になるのか。「自分の国を愛する」ことも行き過ぎれば侵略になる。
一方、福岡刑務所で生体実験の材料にされて殺された詩人尹東柱(ユンドンジュ)が、その生涯を描いた映画のなかで、特高の取調官に言うように「あなた方日本人には民族としての劣等感がある」のか。
R:たしかに、映画「GO」で主人公の在日朝鮮人青年が「俺は何者か」という。何者かは三つあると思う。日本人、朝鮮人、そして俺は俺。この最後にみんななることが連帯への道か。
●民族の解放と階級の解放
R:国家と結びつく危険性があるから、民族解放は、あくまで階級の解放のために「利用」するにとどめるべきかなと思う。民衆は、国家と結びつくのではなくて、まさに足元の、現実の、身の回りの集団として立ち上がっていく必要がある。
Y:国家と結びつく危険ということからいえば、民族と階級は「非和解」なのかな。
G:ただ、マルクスが「他民族を圧迫する民族は自らも自由でありえない」と言ったように、まずは、民族解放の要求と運動によく向き合わなければならないんじゃないか。
階級闘争との関係では、1930年代でも、日本の労働運動指導者は、労働運動の主力となった在日朝鮮人の民族としての要求に向き合うことをおろそかにして「階級闘争」を頭でっかちに優先させたといえる。
また、朝鮮「新幹会(シンガフェ)」は、その対立から1930年代に入り数年で解散する。これも今に問いかけるものがあると思う。
N:差別の問題でも、「当事者以外は口出すな」という向きもあるが、そうではなくて、差別する側も一緒になって状況に「向き合う」べき。
それは、単に見守るとか寄り添うということではなく、共通の敵である国家・資本に対してともに闘うこと。