以下は動画のシナリオ
秩父困民党讃歌@たみとや版「東京に一番近かった革命本部」 2017年9月
(音楽「L’Internationale」「1994年首都に進撃した時のサパティスタの歌」)
133年前、1884年11月1日、秩父の困民が武装蜂起。
大宮郷(現秩父市)にコミューン(無政の郷)を樹立した。
当時、生糸は日本最大の輸出産業。彼らはその生産労働者だった。
1881年から最大の輸出先フランスを始めとする欧州が経済恐慌。絹織物の生産は半減。
明治政府は、そのあおりをまともに受けた秩父困民を救済するどころか、
西南戦争の軍事費のつけで松方大蔵大臣の緊縮財政。
地租を増税。生糸取引に印紙税創設。義務教育のための学校費も困民の負担。
年に倍になる高利貸に「身代」をとられる困民が秩父一円で700戸に及び、自殺者も続出。
当時の「自由民権運動」に共鳴した若き困民自由党員が、
在地の「親分」も動かし、山林集会を繰り返し、困民党結成の中心。
政府の弾圧で、蜂起2日前に解党を決めた自由党中央は蜂起を止めた。
しかし、在地の生糸商の一部有力自由党員も加わり、1万人が蜂起に合流。
明治政府は「絶対に秩父から出すな」と恐れ、山形有朋が先頭に立った。
初めて軍隊を動員し、政府軍兵士死者を「戦死」と称した。
その困民党蜂起は、明治政府が盛んに貶めようとした「単なる農民暴動」ではない。
彼らは、「高利貸を交渉の上、焼き討ちしても、類焼はさせない」などモラル高い「軍律」を本部解体まで規律高く維持。
礼金を支払った炊き出しの「白米のおにぎり」に涙するほど一粒も米は無い。
だから、空の鍋釜を持ったデモをした。しかし、一顧だにしない権力。
それに対して、「専制政府転覆、世直し、世ならし」と声をあげ、村々の権力を奪取し、
「天下の貧富を平均ならしむ」ことを目指して、郡役所に「革命本部」を掲げた。
同時に「自由自治元年」ののぼり旗を立てた。
1871年パリコミューンから13年。
困民党蜂起はパリコミューンと規模も期間も違って、首都占拠でもない。
そして、権力のための「電信」による連絡と「陸軍最新式村田銃」による弾圧。
困民党は、意図した「電信切断」も間に合わず、火縄銃と竹槍の装備。
呼応する社会主義勢力も労働運動も不明確。
「東京まで行くのか」、「これ以上仲間が死なせないのか」方針の分裂。
わずか、3日で「困民党コミューン」は潰えた。
しかし、困民党蜂起は、フランスの資本主義恐慌と連動。
同じ困民として立ち上がったパリの労働者と商工業者と通じる。
そして、近現代日本で唯一の組織された民衆の武装蜂起。労働運動の先駆け。
「学校費の負担が不当。学校の3年間休校」も求めた秩父困民たち。村中で徴兵逃れも祝った。
困民党蜂起が潰えて以降、
日本は、1894年日清戦争、1910年、教育勅語による学校教育の就学率100%の国へ。
秩父困民党無名戦士の墓
「われら 秩父困民党 暴徒と呼ばれ 暴動といわれることを 拒否しない」
「秩父“ぼうと”進撃路」マップ 「秩父ではもはや“ぼうと”は“暴徒”ではない」
秩父困民の団結の源―手作りロケット祭り「龍勢(りゅうせい)まつり」
困民党結集地点 椋神社で続く祭り
400年前から続き現在も27の流派がある
龍勢の弾筒が困民党の大砲だった
困民党に栄光あれ!!!
参考:井出孫六「秩父困民党」、戸井昌造「秩父事件を歩く1~3」、A・コルベジェ「秩父事件とパリコミューン」、井上幸治「秩父事件」、野口正士「石碑が語る秩父事件130年」、羽田信禰連作版画集「峠の叫び―秩父事件の風土と群像」、石間交流学習館展示とビデオ、龍勢会館展示とビデオ、プチ労ブックレットNo.4「ロシア革命史」