大阪八尾北医療センターの歴史と闘い:
3.23八尾北医療センター明け渡し弾劾裁判重松信子さんの陳述
八尾北医療センター労働組合ブログから転載
<概要>
【1】八尾北医療センターにこめられた歴史
【2】八尾北医療センターが実際に果たしている役割(−なくてはならないコミュニティーの中心):
八尾北医療センターは、医療だけを行ってきたのではありません。医療を通して、生きていくために必要な人と人のつながり、助け合い、生きんがための団結の拠点、命の綱であり、地域コミュニティの中心となっているのです。
【3】西郡=更地化、廃村攻撃による八尾北医療センター明け渡し攻撃:
私が、この陳述書で述べたいのは、地域医療・介護というのは人の生活の基盤が整ってはじめてなりたつものだということです。
【4】「八尾北がなかったら生きていけない。死ねと言うのか!」−患者さん、地域住民の生の声:
証人になって法廷で直接裁判長に訴えたいという強い気持ちで、差別で文字を奪われた中で、聞き取りをして作られた陳述からです。
八尾市に言いたい。昔のことを知っとんか。どんな悔しい思いでこの診療所をみんなが建てたんか。 終戦直後、西郡で天然痘がはやった。今の6号館あたりでおおぜいが天然痘にかかった。親戚でも子どもが2人死んだ。診療所がなかった。みんな仕事がなくて貧乏で診てもらおうにも診てもらえなかったからだ。毎日5人、6人と墓に死骸を積み上げた。本当にひどかった。つらかった。八尾市はほんまにわかっとんか。この八尾北をつぶすことは絶対させない。
いまはよそは金目当てで、貧乏人はほったらかしだ。ほんとうにみんな困っている。八尾市は何も分かってない。八尾北医療センターが一番分かってくれている。裁判長に言いたい。来て見てほしい。八尾北がなかったらうちらは医者にもかかれなくなるのだ。
【5】おのずとここで働く者が立ち上がり、住民と怒りを共にし、八尾北医療センター明け渡し絶対反対で団結するのは 自明のことだ:
私たちは、自分たちの命は自分たちで守ろうと立ちあがった地域住民の決起から始まって、それに応えて、いろいろ時期や職種などは違いますが、自分たちもいっしょになって診療所を作り、それが形を変え、名前を変えてはいるが今の八尾北医療センターであり、そこに誇りと自信を抱いています。
2010年4月1日以来、私たちは八尾市の問答無用の明け渡し攻撃の前に立ちはだかり、一日一日医療・介護を行って団結をはぐくみ、日々勝利を積み重ねてきました。この団結の軸が八尾北医療センター労働組合です。
私たち八尾北で働く者が、絶対反対で団結し、立ち上がるのは自明のことです。私たちは必ず勝利します。
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<全文>
重松 信子
八尾北医療センターは八尾市北部の西郡地域にあり、周囲には同和住宅が42棟と店舗付住宅9棟、府営住宅が30棟立ち並ぶという一角にあります。住所は、八尾市桂町六丁目18番地の1です。
私は、1995年から八尾北医療センター(当時は、運営委員会)の医師として勤務し、97年からは常勤医として今日まで17年間勤務しています。また、2001年3月からは、医療法人健進会の理事長に就いています。私は、医療法入健進会の代表者であるだけではなく、日々医療と介護の現場で働いているという立場から陳述したいと思います。
はじめに
八尾北医療センターが行ってきた診療行為は、八尾北医療センターに先行する西郡平和診療所、幸生診療所の時代においても、本来、八尾市が地方自治体の責務として行わねばならないことでした。しかし、八尾市が部落差別の解決に努力するどころか放置したので、西郡住民が自らの力で、西郡平和診療所、幸生診療所を建設し、運営してきたのです。
そして、ようやく、1982年になって八尾市も自らの責任を認め、八尾北医療センターを設置・運営することにより、自治体・行政としての責務を果たすことになりました。しかし、この段階に至っても、八尾市の努力は不十分であり、患者さん・住民のみなさんと力を合わせ、幸生診療所からそのまま移ってきた職員が主体となって、地域の公的医療機関としての責任を果たしてきたのです。
ですから、八尾市が八尾北医療センターを大病院へ売り飛ばすことは絶対許せないと、2005年から医療法人・健進会が八尾北医療センターを運営していますが、本来八尾市が、公的責任において維持・運営すべき診療所です。ましてや、八尾市が地域住民に対して必要な医療を提供すべき責務を負っていることは、現在も将来においても変わりません。こうした八尾北医療センターの役割が5年で終わることもありえないし、八尾市が健進会に対して、八尾北医療センターの明渡しを求めることは、八尾市の地方自治体としての住民に対する医療と福祉を提供すべき責務に全く反するものです。
【1】八尾北医療センターにこめられた歴史
@ 前史
第2次大戦前、西郡の人々の寿命は一般地域の3分の1でした。1887年のコレラの流行で西郡人口929人中50人が死亡しました。死亡率は大阪府の6倍と高く、警察が瀕死の者までただちに運んだために死者が埋まった墓場には、うめき声が聞こえたといわれています。
1940年にはトラコーマのために失明者が多数でました。(トラコーマ後遺症の患者は現在も八尾北医療センターに通院しており、睫毛の除去を行っています。)
戦後、1946年には、天然痘が大流行しました。とりわけ西郡地区の被害は甚大で、2000人の人口のうち半数の1000人が天然痘にかかりました。しかし、八尾市は西郡地区の住民に対しては何らの治療もせず、他地区への天然痘の拡大を防ぐため西郡地区が閉鎖された結果、西郡地区では200人近くもの死者が出ました。そのうち9割は、まだ抵抗力のない子供たちだったのです。まさに、部落差別によって殺されたのです。現在、健進会理事である辻西幸子さんもこの時罹患し、その後、後遺症と闘いつづけているお一人です。
A 西郡平和診療所
「みんな、昔のこと知っとんか。ほんまに苦労した。天然痘で人がゴロゴロ死んで。うちら何人子供亡くしたか。八尾市はほんまにわかっとんか。この八尾北をつぶすことなど絶対させない」(2011年6月地域懇談会での参加者の声)。無医村であった西郡の住民たちは、この怒り・悔しさの中から立ち上がり、自ら資材を持ち寄り、資金を集め、医者を呼んで、1951年、西郡平和診療所を設立しました。
平和診療所は、15坪2階建ての建物で、待合室、処置室、診察室、検査・レントゲン室を備え、診療科目としては、内科、小外科(けがの手当など)、眼科、耳鼻科、産婦人科等がありました。そして、月曜日から金曜日は終日、土曜日及び日曜日も午前中に診療を行っていました。患者数は1日150〜180人、病院のない周辺の若江地区などからも多くの通院患者がありました。
だがその後も、赤痢や猩紅熱、ジフテリアなどの伝染病で命を落とす人が絶えず、診療所は住民と一緒に、疾病が単に個人の責任ではなく、住環境、貧困などによるものであること、それを放置した差別行政の結果であることを徹底して追求し、八尾市に対して道路、下水道の整備、住宅建設などをやらせる成果を勝ち取りました。
このように診療所は地域住民と一緒にたたかい住民の命と生活をまもる重要な医療拠点、闘いの拠点となってきたのです。
B 幸生診療所
この西郡平和診療所が、1966年に法人化され、医療法人健進会・幸生診療所となったのです。
しかし、医者が定着しないという状況が続き、1969年、西郡の人たちは「医師がいない。西郡にきて部落差別をなくすために闘ってくれる医師はいないか」と70年安保闘争でバリケードストライキ中の京都大学に医師を求めて行ったのです。
それに応えて、末光道正医師(現院長、理事)をはじめ、70年安保・沖縄、狭山闘争を闘った世代の医師や看護師が、住民と共に、差別をゆるさず分断を打ち破って診療活動をやろうと幸生診療所に合流してきました。現在も勤務している藤木好枝看護師、久原正子事務長(現理事)、2007年まで勤務していた川脇恵美子看護師等です。
そして、その当時から、ともに先輩達が築きあげた診療活動を引き継いできた地元出身の職員として、2007年まで勤務していた上杉理知さん、現在も勤務している辻村聡さん、辻西幸子さん(現理事)、2000年まで勤務していた高井順子看護師(現理事)らとともに、30年以上の長年にわたって勤務してきた職員たちが軸になって診療所を地域住民と共に引き継ぎ守ってきたのです。このような例は、大阪府下に30箇所近い同和地区診療所がありましたが、他の同和地区の診療所にもない貴重な特筆すべきことです。
ところが、1980年頃になると、戦後部落解放運動の変質がどんどん進んでいきました。その一つは、みんなで建てた幸生診療所の私物化でした。経営は公私混同、不明朗となり、理事長の北村善蔵氏が市議会議員選挙のために他地域へ診療拠点を拡大し、西郡の地域医療を軽視するようにもなりました。その時、職員は医師と共に抗議し、派遣を拒否し、診療所の私物化をやめさせました。
C 八尾北医療センターへ
1982年、地域医療を進めるなかで、劣悪な衛生環境に対してもっと設備が整った病院がほしいという住民の要求に応えて、八尾市は、同和事業の一環として八尾北医療センターを建設しました。八尾市北部に医療機関が少なかったことから、行政の責任として、八尾市北部の医療保健の増進を担う公的な医療機関として八尾北医療センターが開設されたのです。
しかし、八尾北医療センター建設に際しては、計画が実行に移されれば健進会(幸生診療所)にとっては地域に競争相手ができることになるので、この計画に対し北村理事長は、「反対」の意向を示し、「職員が八尾北医療センターに移るのは勝手であるが、幸生診療所を退職しても退職金は出せない」と述べて、医師や職員を引き止めようともしてきました。だがそのような中で、地域の人達や患者たちからの「八尾市で計画している病院が建設されたらそちらに移らないか」という呼びかけに応え、1982年9月、末光医師を先頭にすべての職員が北村氏と袂を分かち、新しく出発した八尾北医療センターに移り、カルテもそのまま引き継ぎ、西郡と地域の医療は、こうして八尾北医療センターへ引き継がれました。
D 八尾北医療センターの運営
八尾北医療センターは、旧同和地区である西郡地域の保健及び医療面の整備を図る地区内医療設備であるとともに、医療機関の不足する市北部の地域医療の充実に寄与するための施設として開設されたものです。従って、本来ならば行政が直接担うべき役割を果たす施設として、八尾市の直営事業とされるべきものでしたが、地元関係者も参加した上での運営を図るため運営委員会による運営という方式が採用されました。
運営委員会は運営、経営に関する資金の調達、関係機関との連絡調整、資金管理その他運営に必要な事項を行っていました。また、運営委員会は、行政関係者4名、地元関係者など7名、管理医師1名の計12名で構成され、行政関係者としては、八尾市の関係部局
である人権部、保健福祉部、財政部、市立病院の各部長職にある者が運営委員に就任し、そして、運営委員会の委員長には、八尾市保健福祉部の部長がその任に当たっていました。 八尾市には2001年以降はこれらとは別に、八尾北医療センター担当の理事が置かれていました。
八尾北医療センターの収入は,医業収入及び八尾市からの補助金が主なものでした。補助金には,同和地区保健推進事業補助金(府の制度),同和地区医療施設市有財産保守保安経費補助金,市設置診療施設財産保守保安経費補助金,同和地区診療施設整備事業補助金(府の制度),同和地区診療所自立支援事業補助金(府の制度)がありました。
また,八尾市は,八尾北医療センターの設立当初から本件事業譲渡が行われるまで,同センターが医療行政及び同和行政の推進という市の行政施策に沿った運営を行うことができるよう支援することを目的として,同センターに市保健福祉部健康管理課の職員2名を事務長及び総務主任として派遣するとともに,これら2名の職員の給与を負担していました。
さらに,八尾市は,運営委員会との間で使用貸借契約を締結し,契約期間の更新を繰り返すことにより,同センターの設立当初から本件事業譲渡が行われるまでの間,運営委員会に同センターの土地・建物を無償で使用させていたのです。
E 八尾市北部の地域医療を担う公的医療機関
八尾北医療センターに移ってからは、西郡地域だけでなく八尾市北部の医療機関として診療に取り組んできました。保健所との連携、八尾市健康福祉課との連携、医師会との連携、地域との連携など、公的医療機関としての責任を果たしてきました。
とりわけ検査や健診に力を入れてきました。地域的には高血圧や糖尿病が多く、同和事業である保健増進事業を利用し、検査が無料でできるようにし、早期発見早期治療に努めてきました。部落解放同盟大阪府連は「ムラだけに使え」、日本共産党は「他の診療所の営業妨害になるから一般住民に使うな」と攻撃してきました。しかし、八尾北医療センターは、地区内外の分断を超え、医療費の負担に苦しむ住民の検査のために使って、早期発見早期治療に努めてきました。
また、慢性疾患なども多い地域で、病気に対する正しい知識を持ってもらうために、月に1回の患者学習会も積極的に取り組んできました。
そして、医療の実態調査の結果、重労働による腰痛、膝関節の疾患の患者が多いことから、整形外科の医師も確保してきました。このような努力によって年間延べ6万人と患者さんの利用は増え定着していったのです。
八尾北医療センターは、内科、小児科、放射線科、心療内科(2001年2月まで)を中心とする診療業務、デイケア事業のほか、市の委託医療機関として基本検診、高齢者インフルエンザ予防接種、乳幼児予防接種、大腸ガン検診等の検診予防事業を実施しています。患者は、1985年度以降年間5万人以上で推移しており、そのうち地区外からの患者数の割合も2001年以降は患者数全体のおおむね過半を占めていました。
F 医療法人健進会へ業務移管
医療法人健進会は、八尾北医療センターが開設されたため、1982年8月末をもって「休眠」状態となりました。その後、2000年に介護保険制度がスタートした際、大阪府は、運営委員会には法人格がないとして、八尾北医療センターに対して、訪問介護事業、居宅介護支援事業の事業認可(事業指定)を行いませんでした。そこで、医療と介護を切り離し、介護も、ひいては医療も地域住民から奪おうとする政府や大阪府のやり方を正すべく、2001年3月に医療法人健進会を休眠状態から起こし、八尾北医療センター内で健進会による介護事業等が開始されました。なお、健進会が上記の各部屋を使用するについての使用料は無償でした。
そして、2005年4月、八尾北医療センターの業務が運営委員会から医療法人健進会に移管され、今日に至っています。この時の事業譲渡に際しても、八尾市は、議会等で繰り返し八尾北医療センターの医療施設としてもつ重要性やその公共的・公益的性格を強調しています。
この事業譲渡に際しては、その条件について末光医師が医療法人健進会の窓口として八尾市と協議を行いました。同センターが開設以来,施設の大規模な補修,整備を行っておらず,老朽化が著しい状態であったことから,八尾市が施設整備費用を支出して,バリアフリー化等の工事を行いました。これは,八尾市が健進会への事業譲渡後も,八尾北医療センターが長期間にわたって市北部の地域医療を担う公益性の高い施設として機能することを期待していたからにほかなりません。
さらに,八尾市は,八尾北医療センターの事業譲渡に際して,2005年3月29日,経営安定化のための資金として9000万円を健進会に貸し付ける旨の金銭消費貸借契約を締結しました。この貸付は,無利息,無担保,無保証で行われており,また,貸付金の弁済方法についても,2008年9月から2033年3月までの長期の分割弁済が合意されています。医療法人健進会は八尾北医療センター以外に事業を行っていないのですから,八尾市が上記のような長期の分割弁済を合意したということは,少なくとも2033年3月までは八尾北医療センターの事業を継続するということを前提としていたということです。
八尾北医療センターは1982年の開設以来、施設の大規模な補修・整備がなされておらず、老朽化が著しい状態でした。また、特に公共性の高い医療施設については、いわゆるバリアフリー化を図ることが求められていました。このことは八尾市の障害者基本計画において、公共交通や道路、公共施設等のバリアフリー整備を推進することを基本方針の一つに掲げていることとも合致していました。
他方、健進会は資金的な余裕のある医療法人ではなく、八尾市による9000万円の運転資金の貸付が必要と判断されるような状態であり、健進会は金融機関から多大な融資を受けることができるような状況でもありませんでした。
このような状況下にあって、八尾北医療センターが、今後においても八尾市北部の地域医療に資するものであるとともに、地域医療を担う公共性の高い施設として機能するために、八尾市が施設の整備費用を負担することは公益性があると判断した結果、4006万1000円を八尾市は支出したのです。
八尾北医療センターは、運営委員会方式の下での賃料はゼロであったが、それでも平成7年度から赤字経営であり、委譲後も直ちに単年度黒字経営になる見通しは全くありませんでした。さらに健進会に資金的な余裕がなく金融機関からの融資も望めない状態であったので、経営委譲後から直ちに施設使用料を八尾市に支払うことは困難であることは八尾市も十分に理解していたのです。このため、八尾市は健進会の経営支援のため、賃料を免除することにしたのです。
G 現在、八尾北医療センターには非常勤の職員をふくめて約60人の労働者が勤務し、日々、医療と介護を担っています。同センターの果たす役割、機能、公益性とそれへの期待は、今なお何ら変わっておりません。
以上の歴史的経過からも、八尾北医療センターはみんなの財産であり、八尾市が勝手に売り渡したり、つぶしたりすることが許されるはずがないのです。
【2】八尾北医療センターが実際に果たしている役割(−なくてはならないコミュニティーの中心)
@ 八尾市北部は医療機関が限られている
八尾北医療センターは八尾市の最北部に位置しており、桂中学校区の中心に位置しています。八尾北医療センターを中心とした第一次診療圏(半径500m)には他には浅井クリニック(整形・内科)があるのみで、第2次診療圏(半径1km)には福家医院(内科・小児科)本吉診療所(内科・整形)があるだけです。いずれも無床の個人医院です。人口23,232人(2005年)の割には医療機関が非常に少ないのです。
そのため八尾北医療センターには、西は山賀町、東は福万寺町南、南は長池町、北は東大阪市の玉串町西から多くの患者が来院してこられます。
とりわけ西郡地域では、2年前までは高砂クリニック(1983年創立)が存在しましたが、2007年に倒産したため、現在は八尾北医療センターのみとなっています。
また、八尾北医療センターからの紹介病院(有床)としてあった近隣の今川病院が2006年に、花園病院が2007年に閉院したため、患者をギリギリまで八尾北医療センターで引き受けなければならないケースが増えています。
A 患者の実態
八尾北医療センターには年間で延べ総数約5万人の患者さんが受診し、レセ数では年間1万5千人強を数えます。
毎月でいえば平均1200人の患者さんが受診します。ちなみに2010年10月の受診数は、1532人、10月の延べ数4003人でした。厚生労働省の医療受診抑制策のもとでもこの数年の受診数は変わりません。新しい患者さんも毎月20名を下りません。
八尾市北部の医療環境は決してよいものではなく、廃院、倒産や、保健診療ができなくなったりなどの病院が相次ぎ、そこから転院してきた患者も相当数おられます。
毎日平均して150人が外来を受診します。多い日は200人を超えます。約30名の患者さんがリハビリを利用、また40名以上が物療を利用されています。11月、12月の毎日曜には八尾北職員は休み返上で1000名ちかい方々にインフルエンザの予防接種を実施しています。
この診療所に介護部門が加わったのが10年前です。八尾市で一番、高齢化率が高く、かつ一人暮らしの高齢者が多い地域です。毎日約20名の方がデイケアを利用され、そこで入浴し、昼ごはんを食べ、リハビリやレクレーションを受けたりしながら1日を過ごされています。訪問介護は1日平均約40件訪問しています。
B 医療部門で特筆すべき送迎体制
患者さんの疾病の特徴は高血圧症、高脂血症、糖尿病など慢性疾患が多いことです。歴史的に蓄積された不安定雇用、低賃金、肉体労働のため、安くてカロリーが高い食生活に偏っていることが原因です。継続的治療と適度な運動が必要です。そのためにも、できるだけ閉じこもりを防ぎ、家を出て八尾北に来ることが治療の第一歩だと位置づけています。
また、内科的慢性疾患に加えて、加齢や若いときの重労働による骨粗しょう症や変形性関節症の患者さんがとても多く、膝や腰の痛みで団地の階段の昇降もままなりません。診療圏には市営・府営あわせて72棟の公営住宅があります。高層は1棟だけ。他は4階5階建てで、エレベーターがあるのはたった5棟。それもこの1〜2年で設置されたのです。後で述べますが、今後は建て替え計画もありません。こんなとき威力を発揮するのが送迎体制です。来院することがリハビリにつながります。
財政的にも訪問診療は、本人負担が月額6,160円(1割負担で)と大きくなってしまいます。
八尾北では毎日40人以上の人が車での送迎を利用しています。当センターの診療は患者さんの家の玄関口から始まっているのです。送迎があるからとの理由で、八尾北に転院を希望される患者さんが毎月数名おられます。
C 各科の確保
八尾北医療センターには、内科以外に整形外科、小児科、精神科があります。
整形外科は、高齢で遠くまで行けない、どうしても整形外科がほしいという患者さんたちの要求で、一緒に整形の医師に頼みにいってきてもらうようになりました。
小児科は、少子化率が八尾市トップですが、かつて天然痘で200人ちかい子どもたちが犠牲になった歴史を繰り返してはならないと、小児科と予防接種は受けやすい体制を作ってきています。
精神科は、内科と併設している病院はほぼ皆無であり、当センターは予約制でないこともあって遠方からも患者さんが受診されています。
D 予防医療と健診
インフルエンザ予防接種は、最近の新型インフルエンザへの対応など、高齢者がみんな受けられるようヘルパーも協力し、負担免除の手続きも受付がまとめて行い、保健センターとも連携して行っています。
また、健康診断に力を入れ早期発見・早期治療を進めてきました。2008年に無料の市民健診が廃止されてしまいましたが、それまで年平均1000名が基本健診を受けていました。胸部レントゲンが項目に入らなくなっても無料で加えて行ってきました。この間の医療制度改悪によって、診療所でガン検査のための血液検査などができなくなったり、市民健診は廃止されてメタボ健診に特化し、健診事業が医療で金もうけする企業への誘導に変質させられています。当センターはこれに反対して闘っています。
先にも触れましたがこの地域は糖尿病が多く、早期発見によって年々治療者が増えています。中には治療に無自覚な人もおり、連絡を取って治療を進める取り組みもしています。
E 医療と介護、院内薬局が一体となっていることがもつ極めて優れた医療体制
「医療と介護を一体で看てほしい」というのが、患者の強い希望でした。この医療と介護を切り離す攻撃は、医療を権利ではなく金で買うサービスに変えてしまうだけでなく、外注化=非正規職化で労働者を分断と競争に叩き込む攻撃でもありました。
当センター内に、2001年に介護センター(医療法人健進会)を立ち上げ、訪問介護、居宅介護支援ができるようになり、2006年12月からは本格的なデイケアも開始していますが、こんな医療機関はほとんどありません。毎週医療と介護の合同症例検討会を行い、医療と介護を一体に進めることができるのです。
また、院内薬局を維持し、医師と薬剤師、介護が一体になっているのも他にない優れた点です。患者の顔を見て確認しながら薬を渡せますし、薬の変更や問い合わせにもすぐに医師に確認でき、患者に説明できます。文字が読めない患者も把握できているので、適切な説明ができます。最近は認知症の患者が増えており、一包化したり、医療と訪問介護、デイケア一体で服薬の管理・確認を行うことができます。
F 大事なことは、この八尾北医療センターでは医療・介護を受けられるだけではなく、人とのつながりが得られるのです。
その基底にあるのが長年勤続している職員との信頼関係です。
生きるうえで人とのつながりがどんなに大切か。一人の患者さんの1週間の生活を再現することで言い表してみたいと思います。
Aさん。80歳代後半の女性、団地で一人暮らしをされています。40年近くこの地域に住みなれています。ただここ数年物忘れも進んで、おなかがすいたかどうか、食事をしたのかどうかさえ忘れることもしばしばです。彼女にとって一番の味方は八尾北のヘルパーです。食事の準備、服薬確認、掃除、洗濯、トレーニングパンツの交換すべておこたりなし。時に悪質訪問販売にひっかかり、必要もない浄水器を買わされたことも数回。そのたびに目ざとくヘルパーが異変に気付き、八尾北の担当ケアマネージャーがクーリングオフしたことも数回です。また猛暑つづきの夏は脱水症の季節でもあり、エアコンの管理もヘルパーです。脱水予防の点滴は日曜に実施しています。日曜が一番目が届きにくく危険なため、安全な八尾北で1週間が始まるという訳です。デイケアにも週4回参加され、椅子で居眠りされていることも多いのですが、周囲にとけ込みおだやかに和んでいます。ちなみに当センターのデイケアは和(なごみ) と命名されています。
私は医者ですから高血圧とか認知症への薬を処方していますが、よっぽどヘルパーとのつながりやデイケアでの一日のほうが認知障害をくい止めていると確信しています。「八尾北のヘルパーさんがいなかったら、もうとっくに死んでるわ」とは、彼女の心からの言葉です。
しかしまた彼女のような患者さん一人ひとりに支えられて八尾北医療センターの今日があるのです。
G 最近は、中国残留孤児で帰国された方の家族など多数の中国人が高砂府営団地に居住するようになりました。
言葉で一番こまるのが病気で医者にかかるときです。八尾北医療センターでは、労組が協力し、昨年9月から、隔週に日本語学校の取り組みを開始しました。そこで交流をつくり出し、センター内に中国語訳の案内・説明文も貼り出せるようになってきました。
H 以上のことからも言えるように、八尾北医療センターは、医療だけを行ってきたのではありません。医療を通して、生きていくために必要な人と人のつながり、助け合い、生きんがための団結の拠点、命の綱であり、地域コミュニティの中心となっているのです。
【3】西郡=更地化、廃村攻撃による八尾北医療センター明け渡し攻撃
@ 八尾北医療センターを5年で明け渡すなど絶対に認められません。
地域医療ということを考えたときに、5年で終わるなどありえません。健進会は、60年に及ぶ西郡の地域医療を絶対になくしてはならないという強い意志で、八尾市とさしあたって5年間の土地・建物の使用貸借契約を交わしました。しかし、5年という期間で施設利用が終わるということはなく、当然に永続して利用できるものと誰もが信じて疑いませんでした。それを、八尾市は5年で出て行けと訴えているのがこの八尾北明け渡し裁判です。こんな理不尽なことがあるでしょうか。
八尾市は、何度も鑑定評価実施と協議の申し入れは売却を前提としたものでないことを説明したといいますが、八尾市は、八尾北医療センターの事業譲渡を受けた2005年以後、八尾北医療センターが入居している土地建物の売却方針を基本方針とし、その前提での鑑定評価実施を申し入れてきたものです。
また、申し入れ書には、「市有財産使用貸借契約が平成22年3月31日で期間満了するため」と記載されていました。このように2010年3月31日で使用貸借契約期間が満了するとの前提での鑑定評価申出がなされていたことから、健進会としては2010年3月31日の経過によって本件土地建物が売却され、そのための鑑定評価であるという危惧を強く持ったのです。八尾北医療センターが消滅してしまうことを前提にした鑑定評価実施や協議の申し入れには応じることはできませんでした。
A 八尾市のこのような基本方針は一体どこから出てきたことなのか。
それは八尾市が、八尾市丸ごと800事業を民営化し、西郡を更地化=廃村化するということから出てきたものです。
それを具体化したのが、「市営住宅機能更新事業計画」です。
現在、42棟+店舗9棟=約1400戸ある西郡住宅の大半は、エレベーターも風呂もなく、古くは築40年以上もたち、地震や災害に耐えられない状態です。その中で、この4月完成予定の1〜5号棟の建て替え以後はもう建て替えはしない、空き部屋に住み替えさせることが明らかになりました。改めて計画全体を見ると、古い棟は取り壊し、ムラの半分は更地にして売り飛ばす計画だと言うことがはっきりしてきました。
B 八尾北医療センター明け渡し攻撃も、これと切り離してみることはできません。
なぜなら、すでに西郡地域の中に4園あった保育所のうち2園は廃止され、1園は民営化されました。地域の中にある共同浴場も、老人センターも、次々と民営化されました。そして、100年の伝統があり、全国から見学に来た桂小学校、桂中学校も統廃合が問題になっています。
八尾北医療センターについても、2008年3月議会で、八尾市は突然、一方的に「八尾北医療センターも売却が市の基本方針」だと表明しました。
実は、昨年八尾市議会で明らかになったことですが、市の財政はあと3年で破綻してしまうと盛んに宣伝し、その対策として、まず第一に、市有地を売却して乗り切る方針を掲げたのです。市有地の大半が西郡に集中しています。現に住んでいる者を住宅から追い出し、診療所も取り上げる、問答無用の攻撃が財政難を口実にしたらまかり通るとでも言うのでしょうか。それは、人間の暮らしや命と健康なんか知ったことじゃない、更地にして金に換えて何が悪い、八尾市が破産していいんか、国が滅んでもいいんか、おとなしく従え! ということではありませんか。断じて許せません。
C すでに住宅では、民営化=更地化・廃村化攻撃が、住民追い出しの強制執行攻撃として激しく襲いかかっています。
田中誠太八尾市長は、15年にわたって応能応益家賃制度絶対反対の闘いの先頭に立ってきた八尾北医療センターの職員である辻西・田中・岡邨さん3人を、「住宅を明け渡せ」と裁判にかけ、昨年12月1日には、最高裁が3人の上告棄却を決定しました。これを受けて八尾市は、1月21日、「30日以内に住宅及び駐車場を明け渡し、玄関等の全ての鍵を返還し、未払賃料及び損害金を支払え、さもなくば強制執行する」と通告してきました。 昨年12月21日には、八尾市議会が、傍聴者全員に退場命令を出して議場を閉鎖し、佃照夫さんたち11家族に住宅明け渡し訴訟を起こす議案を強行採決しました。
そもそも家賃を滞納したわけでもなく家賃を供託して闘ってきた人に対して、「明け渡して出ていけ」と、そればかりか、罰則として最高家賃の2倍の14万いくらの金を払えという、まるで悪徳高利貸しの証文のような判決であり、議決であり、通告です。岡邨さんの家族には、まだ義務教育を終えていない子どもさんもいます。強制執行を振りかざし、住む権利さえかくも簡単に奪う八尾市と、その八尾市にお墨付きを与える司法、議会って何なんですか! 私は徹底弾劾します。
しかし、そんなことで不屈の闘う意思を叩きつぶせるわけがありません。「こんな議会で自分の人生が決められるなんて絶体に許さない! ムラの団結、全国の労働者の団結で住宅追い出し、八尾北医療センターつぶし、更地化・廃村をうち砕く!」(佃文弘さん。11家族当該、全国連西郡支部青年部長)、「国・八尾市・裁判所は、一部の資本家の言いなりだ。自分たちの金もうけのことばかり。本当に腐っている。団結して生活を守り社会を変えよう。」(辻西幸子さん)と、誇り高く闘いぬく決意を固めています。
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橋下徹大阪市長と維新の会を突撃隊にして6000万労働者と農民、漁民に襲いかかっている新自由主義・道州制=首切り・非正規化、更地・廃村化の前には、堂々と絶対反対の八尾北・西郡闘争の団結が立ちはだかっています。
D 私が、この陳述書で述べたいのは、地域医療・介護というのは人の生活の基盤が整ってはじめてなりたつものだということです。
応能応益家賃制度が一方的に施行されて、たった10年で西郡地区で1千名の住人が減っています。また、一昨年の時点で161世帯が、その世帯収入が政令月収15万8000円を超えています。この世帯は、5年以内に必ず最高家賃になります。そうすると、住み慣れた地域から出て行かざるをえません。子どもが成人して働くようになっても家族一緒に住み続けたいという、人としてまったく当然の思いを退けるのが応能応益家賃制度です。
私たちは、この地域に根ざして医療介護をおこなってきたし、これからもそのつもりです。それを八尾北医療センターを明け渡せという八尾市の姿勢は、住居を不当にも奪っていく12・1最高裁決定、12・21八尾市議会決議、1・21強制退去通告と二重にダブってくるではありませんか。
八尾市による800事業民営化は、家族から住む家を奪い、医療・介護を診療所丸ごと奪い、仕事を奪い、教育−学校まで奪って社会を破綻させるものです。応能応益絶対反対も八尾北明け渡し反対も、民営化と闘い、団結して生きていく一体の闘いです。
E では、他の同和地域、全部で27あった医療連(大阪府同和地区医療施設連絡協議会)傘下の病院、診療所は今どうなっているでしょうか。
八尾市の安中診療所は、1997年、いち早く医真会に売り渡されました。部落解放同盟大阪府連安中支部の丸尾氏は、「診療所職員の人数が多い、賃金が高い、だから赤字なんだ。」と赤字の責任を職員に転化して、首切り攻撃をかけ、「医真会にまかせれば経営は安定する。」と言って、八尾市に安中診療所を売り渡させたのです。それまで働いていた医師も職員も追い出され、医真会に新たに雇用された労働者は低賃金で定着せず、職員や住民の声など取り上げられない もうけ主義の診療所となっています。
また、大阪府と松原市の共同出資で設立された医療連の最大の病院、阪南中央病院は、1998年、率先して同和予算を返上し、2004年に民営化されました。その時、職員は大幅な賃金カットと首切り、労働強化に叩き込まれ、不採算部門は切り捨てられていっています。地域住民が運動して建てた病院なのに、地元の人も紹介状がないと診てもらえなくなってしまいました。
さらに周知のように芦原病院は、2005年に経営破綻に追い込まれました。
このように、医療連傘下のほとんどが廃業か営利優先の病院に民営化され、労働者は首切り、賃下げ、非正規職に叩き込まれており、応能応益家賃で団地は破壊されて更地化が進んでいます。これに対し、西郡では、八尾北労組を土台に、地域住民との絶対反対の団結が、八尾北医療センターの大病院への売り渡しを阻止し、西郡更地化=廃村化に立ちはだかってきたことが一目瞭然です。
F それは、1980年代にはじまる新自由主義攻撃との闘いでした。
基軸は、日本の労働運動の柱であった国鉄労働運動つぶし−国鉄の分割・民営化です。労組の団結をつぶして、解雇自由、非正規職化で、資本が生きのびようとする攻撃です。 これと同時に、地対協(総務庁−地域改善対策協議会)で解放運動を叩きつぶす攻撃が進められました。地対協路線とは、「部落差別はなくなった」というデマをテコにして、「行政の主体性の欠如」、「運動団体(解放同盟など)のゆきすぎた言動」などとやり玉に挙げて、戦後の部落政策を転換し、同和事業全廃・民営化で解放運動を一掃する攻撃でした。
その攻撃の核心には、解放運動と一体で闘われてきた自治体や全逓、日教組等の労働組合・労働運動の解体がすえられていました。国鉄分割・民営化に絶対反対で立ち向かえなかった勢力は、全て地対協路線に屈服し、医療連のようにむしろその推進者になって生きのびようとしました。つい最近の大阪市労連・中村委員長の橋下大阪市長への平身低頭は、地対協と闘えなかった解放同盟本部の姿と完全に重なっています。
G また、新自由主義は、医療、社会福祉を切り捨て、民営化し、「成長産業」化を押しすすめました。
1990年には福祉関連8法が改悪され、国の責任を地方に押し付け、福祉に対する国庫支出を減らしました。1997年には介護保険法が成立し、介護は、自治体における「措置」から「契約」へすりかえられ、「社会保障は権利ではない、全ては自己責任、サービスは金で買え」とされました。金がない者は医療や福祉、介護が受けられなくなったのです。八尾北医療センターが初めて3000万の赤字になったのも1997年です。受診者が9%減ったからです。
そして、公立病院の民営化、廃止攻撃が全国で吹き荒れています。八尾市の市立病院へのやり方をみてください。八尾市は、全国に先がけて市立病院にPFI(民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進)を適用しました。赤字といって経営を民間に売りとばし、アウトソーシングで医療・看護の中身をバラバラにし、看護師をはじめ労働者は過重労働、外注化による医療器具の殺菌消毒ミス、給食の誤配など、結局のところは患者さんの安全が奪われています。そして、医療の中身も先端医療にドンドン特化し、医療・介護を金もうけの道具にする先頭を走っています。
こうした民営化、医療破壊、安全崩壊に対して、医療・介護の現場で働く者こそが労働者と患者の命の安全に声を上げれるし、団結の力で守ることができます。この団結を破壊するものに対しては、私たちは徹底的に闘います。
【4】「八尾北がなかったら生きていけない。死ねと言うのか!」−患者さん、地域住民の生の声
@ まず79歳の女の方です。
幸生診療所の時代からずっとかかっている。 1965年に神戸から西郡に転居してきた。娘が障害を持っていて、他の病院では拒否されたこともある。きちんと診てくれず嫌な思いもした。ここはほんとに親切に、夜中に熱を出しても往診に来てくれた。娘は18歳で亡くなったが、ほんとに感謝している。5年前には夫が脳梗塞になり、この時も往診に来て病院に入院する手続きをしてくれた。自分も気管支喘息で毎日八尾北に通院している。40数年間先生も変わらないし、安心と信頼もある。言いたいことも言えるし、聞いてくれる。八尾北がなくなったらどこにも行けない。
この方は気管支喘息以外にも骨粗鬆症や腰痛もあり、痛みの強いときは診てもらっている整形外科の通院もままなりません。送迎体制を敷いている当院ならばこそ治療を継続できているのです。また夫を亡くされて一人暮らしになってからは当院のデイケアも利用されて作業療法などのリハビリに励んでおられます。
A 二人目の方も80歳の女の方です。
昭和41年に高砂府営住宅に移り住んできた。以来「幸生診療所」、八尾北医療センターとずっと通院している。主人は心臓病を見つけてもらい、病院を紹介されてそこでペースメーカーを植え込んだ。自分も当初貧血で通院し、今は気管支喘息で治療を受け、甲状腺疾患もあるので定期的に血液検査、エコー検査を受けている。八尾市に一言言いたい、なんでここをつぶすんか、患者のことどう考えているのか、元気な人は遠くまで行けるが高齢者は行けない、ここは送迎もあり助かっている。家族全員が安心してかかれる診療所だ。なくなったら行くところがない。
述べられているように昭和41年からですから45年間、半世紀近く当院を利用されていることになります。現在はヘルパーによる訪問介護も利用されています。加齢による整形外科的疾患で足腰が弱ってきて、医療だけでなく介護も必要となっています。
B 3人目の方も高砂住宅に住む女の方です。
私は現在86歳です。若い頃は家族3人医者にもかかりませんでした。今はリウマチであちこち痛みます。八尾北医療センターは家から10分程の所に位置しています。今ではなくてはならない診療所です。送迎もして頂けます。院長先生始め皆様痒いところまで手が届く、有難いと喜んでいます。私たちはずいぶんお世話になっています。年と共にあちこち緩んできています。高砂住宅の方に同じような症状の方がたくさんおられます。
どんなことがあっても診療所はこのまま続けて欲しいです。介護サービスのケアマネさん、ヘルパーさん皆様何くれとなく事細かに介護して頂いております。
主人も今年亡くなりましたが随分と皆様にお世話になりました。心よりお礼申し上げます。一人では何もできませんが皆様と一緒に医療介護もなくならないように頑張ります。
1年前にこの方(Tさん)のご主人さんは寝たきりに近くなり、その時は入院もしていたのですが住み慣れた自宅に帰りたいと、帰ってからも自宅の畳の上で死にたいと最後まで入院は希望しませんでした。訪問看護、往診、毎日数回の訪問介護を行い、つきっきりで介護をされているTさんをサポートしました。Tさんも現在は一人暮らしです。息子さんは遠方に住まわれており、八尾北医療センターは近くにあって心強い存在でありたいと介護医療を担うものとして努力してきました。今後もそうした存在であると信じてご主人さんも安心して旅立たれたと思います。
C 4人目は、88才の女性です。
証人になって法廷で直接裁判長に訴えたいという強い気持ちで、差別で文字を奪われた中で、聞き取りをして作られた陳述からです。
八尾市に言いたい。昔のことを知っとんか。どんな悔しい思いでこの診療所をみんなが建てたんか。 終戦直後、西郡で天然痘がはやった。今の6号館あたりでおおぜいが天然痘にかかった。親戚でも子どもが2人死んだ。診療所がなかった。みんな仕事がなくて貧乏で診てもらおうにも診てもらえなかったからだ。毎日5人、6人と墓に死骸を積み上げた。本当にひどかった。つらかった。八尾市はほんまにわかっとんか。この八尾北をつぶすことは絶対させない。
いまはよそは金目当てで、貧乏人はほったらかしだ。ほんとうにみんな困っている。八尾市は何も分かってない。八尾北医療センターが一番分かってくれている。裁判長に言いたい。来て見てほしい。八尾北がなかったらうちらは医者にもかかれなくなるのだ。
D 以上の方々は80歳前後で長らく当院に家族ぐるみで通院されています。
同じような方々が他にも多数おられます。みなさんの家族の歴史が当院の通院歴のなかに詰まっています。半世紀にも及ぶものです。この事実は非常に重いもので簡単に他の医療機関に切り替えられるものではありません。
またこういった患者さんに寄り添ってきたからこそ介護が必要となった時に当院で介護を行いたい、送迎を必要とした時に当院で安全に送迎をしたいと、その体制をとるべく闘ってきたのです。
E さて、昨年11月末からわずか2ヶ月で、300通ちかい一筆署名が集まっています。
その一筆一筆に、ひとり一人の生き様、家族の歴史、なくてはならない診療所を取り上げないでという命の叫びが込められています。ここでは、ごく一部を割愛して紹介することしかできません。ぜひとも裁判長には、その全部を隅々まで目を通して頂きたいと思います。
・ 八尾北医療センターは、私たち患者のためになくてはならないセンターです。私ら患者には、八尾北がなくなったら、遠い所には行くことが出来ません。死ねということです。西郡を更地化し売りとばすということは、命よりも金だということです。絶対に許すことはできません。団結して頑張ります。(八尾北命と健康を守る会 女性)
・ 私は83才です。まだまだ元気です。近くの八尾北医療センターにお世話になっているおかげだと思ひます。先生一同皆様方 明るくて、しんせつです。生涯命ある限り 近くでお世話になりたいです。どうか私達の気持をお察し下さい。宜しくお願い致します。(高砂府営住宅 女性)
・ 私は、八尾に(昭和)40年にきて こうせい(幸生)しんりょうしょ 八尾北いりょうせんたーとお世話になって 八尾北をなくすことは絶対はんたいです 長年おなじ先生にみてもらっているので安心です ここがなくなることは絶体反対です 私をはじめ かいごをしてもらっている人がここをなくすことは本当にこまります 八尾市のやりかたは
ゆるせません。本当にいかっています。(高砂町 女性)
・ 幼少の頃からお世話になっています。これまで何十年も診て頂き、何より信頼があります。八尾北はかけがえのない所です。ぜひなくさないで下さい。(緑が丘 女性)
・ 一筆申し上げます。私達は戦前戦後の混乱の中ささやかに生きて来ました。今皆七十才を過ぎています。頼りになる北医療をなくせとは無情です。北医療センターは私共の命の綱です。どうかなくさないでください。(高砂町 女性)
・ 八尾北は、私達としよりの1番大切な所です 近くに病院はなく 歩く事が出来かねます どうか取り上げないで下さい 切に切にお願い申し上げます。(高砂町 女性)
・ 私は西郡で生まれて64年になります。小学校の同期の人もびんぼうで医者にみてもらえず2人の友達がなくなりました。八尾北をなくさないでください。(高砂町 男性)
・ 私はいつも心臓病、ひふ病、風邪などいろいろとお世話になっております。字が書けない私にとってお医者さんや看護婦さんにはとてもお世話になっています。だから八尾北診療所をつぶさないで下さい。この文は嫁に代筆してもらっています。(福万寺町 女性)
・ これだけ長い間、地域に根付いた医療センターがなくなることは、地域のつながりが全て壊れてしまいます。なくすことは絶対に許せません。(高砂町 女性)
・ この病院がなくなったらこまる。市民を第1と考える八尾市やったら俺たちのこえを聞くべきや。裁判長も人間やったら、俺たちの気持ちもわかるでしょう。ぜったい人間としてやってはいけません。法は法です。人間として見て下さい。(桂町 男性)
・ 八尾北がなくなると父88才 母89才が病院に行けなくなります。(上之島町北 女性)
・ 総合病院だと何科に行っていいか分からない。八尾北だとまず先生に相談に乗ってもらい、指示をもらい、安心してまかせられる。八尾北がなくなるとたくさんの人が困ると思います。(八尾木北 女性)
・ こんな病院をつぶすなんて老人たちを殺すつもりか 八尾市長は鬼だ。(高砂府営住宅 男性)
・ 八尾北が無くなると病院にかかりにくくなります。なくなることは絶対に反対です。ずっと地域の医療に昔から診てもらっています。自分たちのこと、地域のことずっと知ってくれている先生がいる。安心して病院に行けてたのが行けなくなる 不安です。地域医療の大切さがみなおされている時代に、時代に逆行しています。八尾市のやり方はひどいと思います。高齢化が進むなか、地域のとしよりに死ねということでしょうか?このこたえをください。(西郡市営住宅 女性)
・ 老人で、家内が悪くて病院に行く事がむづかしく、家事一般の事もできず、八尾北がなくなると非常にこまるので、絶対に反対します。(小畑町 男性)
・ 76才の男性です。八尾北医療センターに大変お世話になり、幾度となく危ないところを助けて頂き有難い感謝の気持ちで胸が一杯です。妻も長崎で原爆を受けた被曝者で、数々の病気を治療して頂き元気になり喜んでいます。このセンターを末長く存続させて頂きますようお願い申し上げます。(山本町北 男性)
・ 次女が、こちらの精神科に通っております。八尾市内で初診で診てもらおうとしましたら1ヶ月待ちで、6軒目でやっとこちらがすぐ診てくれるというので来ました。おかげで少しずつよくなってきているような気がします。精神科にかかる人は八尾市でもとても多いのを実感しました。こちらで診てもらえなかったら、どこに行ったいいのかと途方に暮れるところでしたので、ぜひ続けてほしいというか困るのです。(東山本町 女性)
F 一筆署名には、八尾市で作業所「ゆうとおん」を運営されている方や、作業所に通っている方々の署名も多数寄せられています。
理事長の畑健次郎さんの署名を紹介します。
・ 私たちは、障害を持つ市民と共に、八尾の地域で作業所を運営しています。身体に不調を抱えている人もたくさんいますが、そのことをなかなかうまく表現できない人もいます。そんななか、八尾北医療センターのみなさんは、患者の身になってていねいに対応してくださいます。弱い立場の人たちにとって、なくてはならない医療機関です。いろんな事情はあろうかと存じますが、八尾北の存続に向けて、裁判官のみなさま方におかれましてもお力添え、よろしくお願い申し上げます。
【5】おのずとここで働く者が立ち上がり、住民と怒りを共にし、八尾北医療センター明け渡し絶対反対で団結するのは 自明のことだ
@ 八尾北で働く労働者の声
?当センターには、非常勤ふくめ60名が働いています。平気で労働者の職場を奪い、誇りを踏みつけ、団結を破壊することは、絶対に許せません。労働者の声を聞いてください。
・ 私は、幸生、八尾北と41年間働いてきました。今送迎の仕事をしています。患者さんの顔色とか体の不調も気づくようになり、これは長年のふれあいから生まれるものと信じています。患者さんは、「八尾北の送迎があるから安心して話できる。家で一人やったら話すこと無いから」と言ってくれます。自分たちはこの仕事に誇りを持っています。お年寄りの命と健康を自分たちに任せて下さい。
・ 私は、八尾北に最初から勤務しています。幸生診療所からです。この30年の間、地域周辺の患者さんの生き死にを見てきました。病状だけでなく、その背景・家族構成まで知り、地域に密着した医療。一方的に書面のみで判断せず、みんなの声を聞いて下さい。
・ 私は、子どもの頃から地域の診療所として医師や看護師さんたちの姿を見て、地域医療にあこがれ、八尾北に転職してきた経緯があります。現在は介護と医療が連携し、この地域では欠くことのできない診療所です。明け渡しには絶対反対です。
・ 八尾北で働いてもうすぐ8年になります。ここで働くことで家族の生活を支えてきました。職場がなくなることは生きていく中で大変大きな出来事で、あってはならないことです。近くの団地に住み、親子ともお世話になり、なくてはならない八尾北です。
・ 在宅ヘルパーの仕事をやっています。職場がなくなるのは生活ができなくなり、次に働く仕事さえ見つけることは難しく死活問題です。仕事を奪わないで下さい。利用者・患者さんとの絆ができるまで長い時間と努力で築きあげたこの病院をなくさないで下さい。
・ 多くの患者様に、医療センターは私たちにとって大切な医療機関ですとの話をよく聞きます。私も同感です。よき判断をよろしくお願いします。
・ 60歳過ぎても堂々と働ける所です。ここで仕事を無くするのは無念でなりません。地域医療だけに信頼関係は大きく、大勢の仲間や利用者さんが安堵するところです。絶大なご配慮をお願い致します。
・ この地域の患者様にとって、命をつなぐ病院です。取りあげないでください。そして、このような病院で働ける事を幸せに思う職員から、病院・職場をうばわないで下さい。
・ 八尾北医療センターに勤めて3年目です。日々介護の仕事をする中で利用者さんの八尾北への思いの深さを痛感しています。政府は医療破壊にしかつながらないTPP参加を打ち出しています。八尾田中市長も一緒です。あらゆるものを民営化し、大企業が自由にボロもうけできるようにと企んでいます。だからこそ絶対反対で闘う八尾北の団結をつぶそうとしているのです。絶対に屈しません。団結をいっそう広げ勝利するまで闘います。・ 八尾市は新自由主義のもとに西郡の公共施設をなくし更地化するというのです。「八尾北つぶし絶対反対、医療うばうな、命を守れ」は生きさせろの闘いです。裁判長は「命と団結の砦」を破壊する八尾市に絶対に手を貸さないように強く要望します。
・ 八尾北に勤めて約5年になります。今までいろんな病院を経験してきましたが、この病院は患者さんに親切で、一人一人のいろんなことを把握していて困ったときに手助けでき、良い医療ができ、地域医療に密着していると思います。市という役割が何なのかを裁判長さん よく考えて下さい。明け渡し絶対反対。
・ 国・八尾市の都合で民営化を強行することは反対します。地域の福祉・医療に八尾市はもっと力を注がなければならない。とにかく住民一人一人の声を正しく聞き、現場スタッフの声も聞いて下さい。八尾北を民営化しても八尾市は発展しません。
・ 八尾北の介護職に勤めて10年が過ぎ、利用者さんとも仲良くしてもらっています。職員たちは和気あいあいと楽しく過ごしています。八尾市の行政は八尾北をつぶそうとしていますが、もっと市民のみかたになるような判決をお願いします。
・ この職場に来て2年 ヘルパーの仕事をはじめたのも2年 やっと利用者さんとうちとけてきて 仕事頑張っていこうと思ったら 職場がなくなる どうしたらいいの? 私たちの生活 私たちの医療をつぶさないで下さい。
・ 人間が人間らしく生きていくことと反する病院廃院などまかり通らせることはできません。日々医療と介護を住民と一緒になって続けている私たちには、何の落ち度もなく誇りをもっています。この裁判は逆に裁判官の人としてのあり方を問うています。人が生きていく以上に価値をもつものなどなく、八尾北医療センターの明け渡しは断じて許すことはできません。
A 以上一部分しか紹介できませんでしたが、私たちは、自分たちの命は自分たちで守ろうと立ちあがった地域住民の決起から始まって、それに応えて、いろいろ時期や職種などは違いますが、自分たちもいっしょになって診療所を作り、それが形を変え、名前を変えてはいるが今の八尾北医療センターであり、そこに誇りと自信を抱いています。
これすら認めない、それが八尾市の意志ですか。八尾北を明け渡せとは、私たちに何か落ち度があったのですか、私たちが何か悪いことをしたのですか、一切はノーです。
そもそも医療は公共でしか成り立ちません。個人が責任を取るものでもありません。私たちは、国と八尾市の責任逃れを許さず、ただ普通の当たり前の診療所としてやってきただけです。言うまでもなく誰も利潤に走っていません。
ところが政府は、大恐慌と3・11大震災と原発事故の状況下で、危機乗り切りの成長戦略の柱に医療の産業化をすえました。八尾市は保健推進課を先頭に、「医療と契約は別だ」と言い放ち、「不法占拠だ。明け渡せ」と裁判にかけてきたのです。
2010年4月1日以来、私たちは八尾市の問答無用の明け渡し攻撃の前に立ちはだかり、一日一日医療・介護を行って団結をはぐくみ、日々勝利を積み重ねてきました。この団結の軸が八尾北医療センター労働組合です。
今、労働者、住民すべてに、人間らしい生活など認めない、資本の奴隷になるしか生存を認めないと襲いかかる追いつめられ凶暴化した新自由主義が、西郡更地化・廃村、八尾北明け渡し・廃院攻撃となって私たちの目の前に姿を現しています。
私たち八尾北で働く者が、絶対反対で団結し、立ち上がるのは自明のことです。私たちは必ず勝利します。
以上を述べて陳述を終わります。